言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

あなたはわたしの光

「黎明の王」感想。磯野大さんが主演だったので観に行った。ネタバレしています。やたら長い。


佐藤弘樹さん演じるヴラドと鵜飼主水さん演じるヴィンツェルのヴァンパイア主従コンビが毎回いろんな事件に出会う的なシリーズらしく、前作を見てるか否かで印象は違いそうだけど、別に観てなかったら話が全然わからないというわけではない。わたしは1回目観終わってから調べてシリーズだと知ったくらいだし…。


今作は磯野さん演じるヴァンパイア研究者のジェリコとその助手のニコラが山でヴァンパイアに出会うところから始まる。変死事件が相次ぎ、黒死病の流行も相まって人が減り続ける城下町の人々は、砦の城には怪物が住むと噂している。ニコラが失踪し城に住むヴァンパイアに攫われたと考えたジェリコは、町の人々と共に城を訪れる道中でヴァンパイアハンターのビクターと出会う。城主のヴラドと従者たちは予想外に彼らを歓待するがニコラは見つからない。そして町長のミロサフが何者かに殺され…。


この話は明確に信頼できない語り手で、実はヴラドはこの城の城主ではなく、城主の不在時に城を訪れたことでなりゆきで成り代わっていた。そして本当の城主かつ人々を襲ったヴァンパイアはジェリコであるということが後半で判明する。これ、多分シリーズを観ている人だったらヴラドが犯人な訳がないということが最初からわかるのかもしれないんだけど、初見だとわからないので、ヴァンパイアを倒したぞ!→完全暗転→ウワーッ!→ラドゥロヴィッチが手首だけになってる、という流れが衝撃的でとてもよかった。

とにかく初見の前半はキャラクターたちが何を目的として動いているのかさっぱり共感できず、城の住人は何がしたいの?街の人々も簡単に心開きすぎじゃない?変死事件の件が何も解決してないが?それで町に帰ってどうするんだ?城の住人も城主殺されてリアクションなし?という疑問符がすごかったのだが、この噛み合わなさ自体が伏線だったということが後半でわかり、大半は解決した。その上で2回目を観ると、前半から後半につながる細かい演技がなされていることに気づくので(あと上に書いたようなツッコミも生じないので)正直2回目の方がおもしろい!こういうタイプのオリジナル舞台って観客の大半が役者のオタクなので多ステする客が多いと思うんだけど、それを逆手に取っている感があって(これはメタ邪推だが)良い。


作中で歌が結構あるが、観ていて歌うことに違和感がないシーンとそうでないシーン(唐突な歌!と感じる)があるのは気になった。たとえばヴィンツェルが崩れた城に取り残されたところにヴラドが助けに来るシーンなんかは歌で表現するのがすごくいいと思ったんですよね。ジェリコたちが城にやってきたシーンで突然オープニングナンバー?の全員歌唱が入るんだけど、これは歌うにしてももうちょっと上手い導入がないか?と思った。感情が乗ってない歌に違和感があるのかも。しかしこの唐突…と思ったオープニングナンバーがラストでもう一度歌われ、そこで印象がまるっきり変わるのはすごいと思った。リプライズ(?)がうまい。あと曲が頭に残る。地獄まで道連れの歌とか。

登場人物、街の4人は役職もあって人格がよくわかるのに対し、城の従者ズが全然わかんなくてちょっともったいなく感じた。他のキャラに比べて突然マンガ的なキャラなせいもあるのかも。せっかく4人にするなら、それぞれコミュニケーションとるシーンとかオフ演技以外で少しでもあったら、もう少し解像度上がったのでは…と思ったりした。


この作品って関係性が対比で描かれるところが多く、共に不死の主従として地獄の果てまで進むヴラドとヴィンツェルに対し、ニコラを死なせたくないあまり修羅の道に足を踏み入れてしまったけど結局ニコラを失うことになるジェリコ、死者である兄・アイヴァンの幻影に取り憑かれているビクターに対し、従者たちの幻影に「消えろ」と告げるジェリコ、それぞれの死との向き合い方がある。そしてラスト、ジェリコはヴラドの「私たちはただの人間だ」というセリフを否定し、自ら人でないことを選択する。このシーンで人を殺しまくるジェリコの美しい異形みがすごくて、磯野さんがキャスティングされた理由の一端を見たような気がした、まず舞台上でめちゃくちゃデカいことによる異物感があるんだよな。


好きだったのは高岡さんのラドゥロヴィッチ、田中さんのアイヴァン、輝山さんのビクター、鵜飼さんのヴィンツェル。

ラドゥロヴィッチは街の人々の中でもいちばん明確に人格や意思が見えるのがよかった。高岡さん風強で観たことあって2回目なんだけど、日替わりとかアドリブ含めて反射神経いいな〜と思う場面が多い。死に方かわいそうすぎる。ウラジミールにキレながらも助けてあげてるのがかわいい。すぐ発砲するツンデレ

ビクターとアイヴァンは、まず設定が好き…城に着いて部屋に案内されたあと、従者ズがヴラドにビクターのことを「独り言が多くどこか妙です」って報告するシーンで、アイヴァンがビクター以外に見えないことに気づき、振り返るとそこまで誰もアイヴァンと会話してないし声も聞こえてないんですよね。目も合わせてないらしい。田中さんは稽古場でビクター以外と目が合うとうわー目が合った!って言われてたらしい。かわいそう。ビクター、あのタイプのキャラだとかわいさを前に出す演じ方をする人もいそうだと思うのだが、全然かわいくないのがよかった。強い。個人的にはアイヴァンって完全にビクターの幻覚じゃないのでは?という気もしていて、というのはアイヴァンだけがジェリコに対して疑いの目をむけているように感じる瞬間がいくつかあったんですよね。本当にいたのかもしれない。

ヴィンツェルは…もう…オタクの女は全員好きだろ!!と思わずバカデカ主語になってしまった。こういう役って中途半端に演じられたらハイハイってなってしまいそうなところがあるけど、完全ノックアウトまで性癖をぶん殴られた。鵜飼主水さんすごいですね。絶対に調べないぞ(沼に落ちたくないので…)角度の付け方から毎秒完璧、とんでもねえ色気。ヴラドとヴィンツェルが城にやってきて従者ズに襲われるシーン、センターで頬杖ついて「歓迎されているようですね?」みたいなこと言うのが好きすぎる。

そして終盤の展開の話なんですけど、その前のターンでジェリコにニコラへ「お前が生きていてくれることがわたしの光だ」って言わせた上でニコラが殺されてて、それで城が倒壊して不死の肉体で闇に閉じ込められたヴィンツェルのところにヴラドが光そのものとして助けに来るの、すごくない?対比えぐ!!と思った。人の心がない。それでいうと前半の晩餐会シーンの曲中、レオネルがダンスなんて踊れないであろう狩人のラドゥロヴィッチの手をとって踊り、後半の惨殺晩餐会シーンの同じ歌詞で、手首を落とされたラドゥロヴィッチの断面を掴むのも本当に最悪ですごい。


これは蛇足なんですが、こういう完全なファンタジーを小劇場(じゃないのかもしれないけどそこまで大きくない規模)でやるのって大変そう〜と思っていて、だって現代劇と違って絶対セットも衣装もちゃんと作らないといけないし、観客側も2.5やグラミュでバチバチに金かかってる作品を見てるから、正直安っぽければわかるじゃん。衣装がみんな素敵でよかった。個人的に正体明かした後のジェリコが首に十字架かけてるのキツ…ってなった。神は救ってくれなかったのに!ストーリー的にも、わたしは性格が悪いので初回の前半の時点では勝手に、あーこういうやつか…みたいな納得をしちゃってたんだけど、後半でそれを全然上回る激重感情、人間の人間へのクソデカ執着、救いのない展開を見せられたので、おもしろい!という気持ちになった。観れて良かったし次作も観たい。

衝突が生む変化の輝き

ムシラセ「つやつやのやつ/ファンファンファンファーレ!」の2本立て再演。

2021年の初演に山崎丸光さんが出ていたので観に行き、ムシラセに出会った。衝撃的な面白さだった。わたしは感受性に乏しいので普段舞台を観てあまり泣かないのですが、初演も泣いたし、そしてストーリーを知っている再演でもやっぱり泣いた。


初演の感想はこちら。(あらすじも)

e-me-me.hatenablog.com

初演を観た上での再演って、どうしても前回の記憶があるのでゼロからの感想ではないし、比較した書き方になるところはあるけど、どちらが良いという意図はまったくないです。それぞれのつやファン。

 

「つやつやのやつ」

辻さん演じる津田くんは続投で、相方が阿久井くん(佐藤新太さん)に変更。ネタ書かないボケなどの設定は変わってないんだけど、演者が変わったことでコンビの印象は変化しており、阿久井くんはやんちゃみが増した気がした。わがままな弟っぽいというか。吉光はどちらかといえばダメなお兄ちゃんぽかったので。あと吉光が書いてたミリオタネタは格闘技ネタに変わってる。

つやつやに関しては、とにかく津田くんが最初から最後までキレッキレで驚いた。辻さんは観るたびに素敵な俳優さんだなあとは思っていたのですが、今回の津田くんはさらにそれを超えて、ずっと見ていたい発光するような魅力があった。あとラストにはけるとき阿久井くんを何度もチラ見するのとか、初演よりかわいさが倍プッシュになっている気がする。津田くんが魅力的なほど、ファンファンでのゆかりの熱い推し語りにも説得力が生まれると思うので、とても素敵。初演もぐっときていたけど、今回は解散しようという阿久井くんを津田くんが止めるシーン、泣きそうになりながら喋る「じゃあ死ねば?」からの台詞で心震わされすぎて泣いちゃった。

有薗さんの堂夏師匠、初演の山森さん演じるおすし師匠が食えないジジイという印象の飄々としたキャラだったのに対し、短気な江戸っ子べらんめえ系で、それぞれの良さがある。カブキ姐さんと師匠のシーンが増えていて、いかにも悪友腐れ縁という感じでほほえましかった。カブキ姐さんは初演で度肝を抜かれてからずっと好き。菊池美里さん本当にすごい。そして結局お通夜でネタやって売れてるんですよね(1年後のファンファン〜ではテレビめっちゃ出てるっぽいので)そういう幸せな伏線回収があってニコニコする。

ちなみにキャス変で役名が変わった人(阿久井くん、堂夏師匠、志乃、山ちゃん)と変わっていない人(ウィスパー、ゆかり)がいるんだけど、これはなぜなのか気になってる。

→ウィスパーは「髙木」から「高木」なので実は変わってた。ゆかりは「ギャルの魂はひとつだから」とのことです。大変納得。

 

「ファンファンファンファーレ!」

この2本立ては、頭にチカがひとりで出てきてサツキと通話しながら、ハルくんの死を知るシーンで始まる。この後起こることを知って見ているので、冒頭の幸せいっぱいなチカからもう泣けてしまって大変だった。

初演のときの自分は、チカについては自分とタイプが違うオタクだなという感想で、共感こそあれそこまで強くは思い入れていなかったんだけど、今回はなぜだかわからないがもうずっとチカを見ていた。つらいのに目が離せない。

志乃がお笑いについて語る言葉と、チカがハルくんについて語る言葉って、すごく似てるんですよね。ふたりともおそらく過干渉な家庭に問題を抱え現実がつらくて、その救いになる何かを求めた。違うのは、チカはハルくんという人に救われて、ミームという推しを応援することを選び、「自分が神様になろうなんて思わない」と言う。志乃は芸人の名前もまったくわからないまま、自分がプレイヤーとしてお笑いをやろうとする。チカがお笑いをやりたいと朝海に語る志乃を見るとき、そこにはハルくんと同種の、誰かの神様になりうる者の輝きがあるのかもしれない。そして志乃と朝海が繰り広げたネタの中にはミームのボケがあり、志乃がお笑いをやろうと思ったきっかけはミームを見たことだった。ハルくんが世界から忘れられていくことに憤っていたチカは、志乃を通じて彼が生き続けていることを知る。このある種の救いの形がとても美しい。

チカの友達である陽気なギャルのゆかりは、今作は潮みかさんが演じているのだけど、めちゃくちゃ良かった…!悪い芝居の方なんですね。絶対また観たい。最後にゆかりがチカを抱きしめてかける台詞が増えていたことで、このふたりの絆の物語という印象が増したのかも。ゆかりは仲の良い家庭で愛されて育って、家庭に問題を抱え家にもあまり帰っていないチカのことを心配しながらも、それを踏み込んで伝えられずにいる。今回チカがメガホンで叫んでブチギレ、ハルくんのいない世界で生きていけない!と慟哭した時点で身を裂かれるつらさに泣いてたけど、ゆかりが大切な人が苦しんでいるのに何もできないつらさを語り、「ゆかがハルくんだったらなあ」でもうダメだった。潮さんのギャル、キャラクター性も高いのに同時に血の通った人間らしさにあふれてて本当に良い。「おいも農家の人じゃんか」の言い方で毎回笑ってしまう。

 

2回観て改めて思ったけど、この物語って人と人がぶつかったりすれ違ったりしながらも、互いに影響を与え合って良い意味で変わっていく、そのプロセスがとっても美しくて尊い作品だと思う。つやつや〜では、ちあきが「無駄な優しさと引き換えにクオリティ落ちてる」と言う通り、ぶつかりあえずにいたぷるタブのふたりが、衝突を経て運命共同体として改めて歩き出す。そして、ファンファン〜でも本当の気持ちを言い合えずにいたゆかちかの2人、おともだちーズの2人が、衝突を経て変わる。ゆかりはチカを思っているということを言えずにいたし、逆に朝海は志乃に対して過剰に支配的で距離が近すぎた。最後、朝海が志乃に「ひとりで大丈夫でしょ」と言えるシーンがすごくいい。朝海役の中野亜美さん、推し缶も買わせていただきましたが、今回も漫才で毒舌なエールを送るシーン、朝海の隠しきれない感情が全身からあふれでていて確実に泣く。そしてこの影響を受けて山ちゃんも変化する。山ちゃんは元芸人ということもあり、志乃が劇場で漫才やりたいと言い出したときには明らかにムッとしてるんだけど、その後志乃と朝海の言い合いが進んでいくと、お笑いの面白さを語る志乃に肩入れし、朝海に「応援してやりゃいいじゃん」と苦言を呈す。そして最後にはチカの祭壇を直し、おともだちーズの漫才のためにセンターマイク(の代わりになる物)を取りに行ってくれる。人間ってひとりの中にこういう多面性があるし、その心の動きにまるで違和感がないのがいい。献心さん、初演の鈴木さんよりやや怖めな印象で、言い方は基本柔らかめな中でもキレるシーンが堂に入ってるのが(今世は他人だろ!のとこ)良い。

 

現実のわたしたちはこんな風にぶつかれずに、何も言えないまま疎遠になってしまったり、変わるべきときに変われなくて後悔したりする。だからこの物語に出てくる全員を愛しく眩しく感じるのかもしれない。

 

あと、今回の再演でつや・ファンどちらも、お笑いにおける女性という性別の不利に関する台詞が増えていた。つやつやではちあきが「女には向いてない」「女っていう性別は、お笑いにおいて不利なことが多すぎる」と発言し、それを津田くんが否定する流れ。ファンファンでは朝海が志乃を否定するくだりで「女芸人なんて男より苦労するし、最後には何も残らない」という言葉。これって現実にお笑い界(をはじめとした社会全体)に存在するジェンダー不平等そのもので、それをちゃんと劇中で指摘してくれることにわたしは信頼感を覚える。「瞬きと閃光」での彩加の台詞もそうだった。そして同時にカブキ姐さんや、この後きっと芸人として生きていくだろう志乃の姿を描くことで、今その只中で生きている人たちへのリスペクトも感じた。

 

おまけ回で初めて生のサツキを観れたのも嬉しかった!サツキ、チカ、ゆかり全員服装の系統が違う(カジュアル、地雷、ギャル)のがめちゃくちゃわかる。オタクの友達グループってそうなんだよな。ウィスパーのオタクになるんか!と驚いた(サツキも推し増しするタイプのオタクなんだな)けど、津田くんはウィスパーのこと面白いと思ってるわけだから好きな笑いの方向性としては一貫してるんだなと思った。

あとめっちゃ細かいけど、ファンファンで出てくるぷるタブ、阿久井くんの服装が(メガネとかも)オフの芸人の解像度高すぎてウケた。売れてきた芸人、キャップにメガネがち。

これは妄想なんですけど津田くんはIPPONグランプリで無双してほしいし(初演から言ってるけど絶対大喜利強いと思う)、阿久井くんはハニトラドッキリをかけられてバズる未来が見える。あと気が利きそうなのでバラエティのひな壇で重宝されて出世しそう。

性善説を描く覚悟

劇団チョコレートケーキ「ブラウン管より愛をこめて -宇宙人と異邦人-」感想。

 

これは懺悔なんですが、先週1回目を観たときにおそらく自分のコンディションがよくなく、「なんかあんまり好きじゃなかったな…」というテンションで感想を書き、しかし西尾さんがアフタートークに出るのでもう一度観に行った結果、自分がかなり話を理解してなかったことに気づくという恐ろしい経験をしました。2回目観ながら「ふつうにおもしろいじゃん…」ってなった。もう自分の感覚が全然信じられないんだが。しかしこれ元々2回観る予定にしてなかったら絶対「好きじゃなかったな…」のままだったので、西尾さんアフト出てくれて本当にありがとうございますの気持ち。

 

なので感想もかなり書き直してます。


子供向け特撮番組「ワンダーマン」を制作するスタジオが舞台。視聴率が振るわない中、経費削減のために怪獣を出さない回を制作しなくてはならず、監督・松村は大学時代の後輩の脚本家・井川を起用する。子供向けの執筆が初めてなのに急ぎで脚本をあげないといけなくなった井川は、特撮監督の古田、助監督の藤原のアドバイスを受け、人気特撮番組「ユーバーマン」の過去エピソードを参考に、人間から差別される宇宙人の話を思いつく。母星を失い地球に流れ着いたカスト星人が、人々から排斥されながらも唯一自分を尊重してくれるパン屋の女店主:サエコと出会う物語「空から来た男」だ。

ラストについて松村からダメ出しを受けつつも、主演俳優の佐藤、ゲストで出演することになった人気女優の森田、そのバーターの若手・下野らと撮影が進むが、撮影も終盤になってテレビ局サイドから差別をテーマにすることへの懸念が生じ、宇宙人を悪者にする形へ脚本の書き換えを求められ…。


劇中で井川が過去に目の当たりにした差別を思い出したり語るシーンがあり、カスト星人は在日外国人、部落出身者、性的マイノリティなど色々なマイノリティを象徴した存在だとわかる。井川は当初、暴徒によってパン屋の女店主が殺害された後、巨大化したカスト星人が街を焼き尽くすのを自業自得と止めないワンダーマンというラストを描くが、松村はそれを否定し、カスト星人が復讐を選ばず街を去るというラストを選んだ。女店主がカスト星人にかける「私はあなたが怖くない」という言葉は、人間が自分と違うものを恐れて排斥する差別の根本的な構造を示していて、「同時に恐怖を手放そう」というのも、暴力の連鎖ではなく相手も人間だと理解することで謂れのない恐怖を乗り越え差別をなくそうということなんだろう。1回目に観たときは、それはまあそうなんだけど今苦しんでる人からしたらややトンポリ的じゃない?差別者は報いを受けるべきでは??という思いがあったが、2回観て理解したのは、そもそもこの話は差別者被差別者の対立、実在する差別問題というよりも、万人の中にある差別心について、皆が自分を省みるべきという視点で描いているということ。台本の読み合わせシーンで顕著だが、「空から来た男」に登場するキャラクターたちはすべてが我々の心の中に存在しうる要素のひとつだ。そして「空から来た男」を変更するか否かの話し合いのシーンで森田が叫ぶ、「物語の中でだけは正しくいられる」という言葉がこの話のキーなのだと思った。誰しもが差別をしてしまう可能性があるし、松村が古田と岸本に毒づくように差別と悪意もセットではない。悪意がない差別だからこそ無くすのが難しい。それでも森田がサエコのようでありたいと語るように、我々は差別を見過ごさず認識し、無くす努力をする必要がある。フィクションはそのための力になれるし、そうあるべきだ。去年戦争六篇を観たときも劇チョコは基本的に人間が好きで性善説だなと感じたんだけど、今回もそうで、でも性善説をやるためのそれ相応の覚悟みたいなものがあるのもわかる。

 

帰ってきたウルトラマン」に「怪獣使いと少年」という話があり、それがこの物語のネタ元になっている。1回目に観たとき、前提として固有名詞を出さずに特撮番組設定でこの話を描くにはやむを得ない展開だろうということは理解しているし、特撮の制作現場知らないから実際にある話なのかもだけど、作中の全員ユーバーマンからのパクりについてどう考えてるんですか?という気持ちがわいていたが、藤原がそれは代弁してくれていた。また、それまで差別を目の当たりにしながら見過ごして生きてきた井川が、なりゆきでこの設定を得たことで過去の経験を思い出して主体的に反差別を示していくという成長物語でもある。井川って別にめちゃくちゃ理想家なわけでもなく、どちらかといえば小心な人間に見えるし、一度松村に「カスト星人と心中するわけにはいきませんもんね」と言うシーンとかすごく中途半端なんだけど、松村が変更に同意しなかったため桐谷から直接脚本を書き換えるよう言われたとき、それにノーを唱え「僕はかけがえのない僕だし、あなたはかけがえのないあなた、互いを尊重する、それが近代社会が目指す平等」という根本的な話を始めるシーンは、劇チョコ(というか古川さん脚本か)のストレートさがめちゃくちゃ出ている印象だった。「社会派の脚本家じゃなきゃ扱ったらダメなのか」「差別はダメ、それを言い続けないと」みたいなくだりも、桐谷を通じて今の社会全体に向けられているような。

 

史実ものでない劇チョコを観るのが初めてだったんだけど、最初に観たときは下野が差別に対して極端に無知な発言をして、それを森田や井川が正すシーンに、ちょっとストーリー上言わされてる感というか、啓蒙ビデオっぽさを感じていた。実在する差別の問題自体をストレートに描くのではなく、差別をテーマにした作品を作ろうとするクリエイターの話として描いているので、作劇上の都合として下野みたいなキャラを登場させないと、前提となっている差別について具体的に掘り下げて話すことが難しいんだろうなとは思うんだけど…あと下野自身は愛すべきキャラなんだけど…(浅井さんのアフターアクトで最後登場するシーンよかったな)

でも舞台っていろんな人が観る可能性があるわけで、まったく前提知識がない人(本当に下野みたいな人)にとっては説明がなかったらさっぱりになるわけだから、差別というテーマを描く上ではこのくらい丁寧にやるのが真摯なのかもしれない。他の作品で性的マイノリティを描いたものを見たとき(serial numberの「すこたん!」)も、そこまで全部言う?と思ったことがあったのを思い出した。センシティブな問題についてフィクションが誤解を生じさせることを避ける責任感なのかも。そして、終盤ストーリーを変えるかどうか?で膠着状態になったとき、下野は「差別がダメって言うのは悪いことじゃないですよね?」という根本に立ち返った発言で皆が意思を取り戻すきっかけになる。


松村というキャラクターについては2回観てもなお縦社会パワハラみを感じるので好きではないんですが、あれこそが彼の生存戦略なのかもなとも思う。あと、井川の記憶の中の声と、松村が結婚の話をしたがらない時点で多分ゲイなんだろうなと思ってたんだけど、最後のくだりで知ったという人も多くて、これはいつ認識したかによって作品の印象が変わりそうと思った。

キャラで好きだったのは古田。彼は局NGが出たときすぐさまそれに従う姿勢を見せるけど、それは特撮が大好きで、これからも特撮の仕事をしていくことを最重要視しているからなので、筋が通っていると思う。あと藤原とのやりとりがかわいい。ユーバーマンクイズのくだりニコニコしてしまう。浅井さんの佐藤も自分が今まで浅井さんに持ってたイメージと全然違ってびっくりしたな。悪い人じゃないんだけどほんとに何にも考えてない感じですごい。筋トレしました?元からあんな感じだったっけ?下野が自主稽古のシーンで喋り方とか似てきてミニ佐藤みたいになってるのがほほえましい。

 

特撮ヒーロー劇中劇に仮託して、差別の問題とそれへの人々の向き合い方を示すのはどんな人でも見やすいし、「帰還不能点」でも感じたようにシームレスに本編と劇中劇を行き来しながら描く手法は見事だなと思った。井川がカスト星人と対話しながらストーリーを考えていくくだりは好きだったし(ここで女店主への感情を性愛ではないと定義するのがよかった)、迫害されるカスト星人のシーンでの皆の切り替え(特に清水緑さん)にはゾッとした。ここ、照明でセピア色っぽくしていて、モチーフになった関東大震災時の虐殺も彷彿とさせるし、悪夢の中みたいでもあるんだけど、群衆がいなくなると倒れた店主とそれを抱えるカスト星人、その後ろに立つワンダーマンのところにじわーっとサスが当たって色が戻ってくるのがいい。


舞台の真ん中に特撮のミニチュアセットがあり、そこに当てる光で日が沈み夜になるのを示したり、古田や藤原が舞台上の照明を操作してシーンを作ったり、色々おもしろい見せ方があった。井川が放送された回を観ているシーンでテレビの光が顔に当たってちらちらしてるのもいい(手前の転がしを点滅させてた)

物語の最後は、カスト星人がひとりで街を離れ放浪し、死の間際に女店主の幻影を見るというシーンで終わる。これは井川が提案して松村に却下されたラストなので実在はしないのだが、ここで座るふたりの背後にある街のジオラマにたくさんの豆電球が灯り星空を演出するのが美しかったな。

海からやってくる罪

タカハ劇団「おわたり」めちゃくちゃおもしろかった!!加えて完全に自分のヘキにぶっ刺さりすぎて、全然冷静な感想が書けません。すごくネタバレしながら最高!って言ったり妄想してるだけの記事です。そういうこともあるよね!人間なので!4000文字ある。怖。


主人公の芥川賞受賞作家・四方田稔梨は、自死した大学時代の友人・裕弥の霊に悩まされ、同じく友人の民俗学者・蛯草紅雄に連れられてある村にやってくる。その村には「おわたり」という奇祭があった。海からやってくる死者を山に帰す年一度の儀式を先導するのは、村の有力者である阿部家の当主・翡翠で、彼女は死者と対話することができるという。稔梨は翡翠に裕弥との対話を依頼するが拒否され、また翡翠の孫である刹那が彼女から虐待されていることを知る。刹那が裕弥にそっくりだと驚き、彼を保護しようと言い出す稔梨と、止める紅雄。そうしておわたりの儀式が始まるが…。


映像はほぼ使わず、舞台装置や小道具、光と音でホラーを表現している。大きすぎる音でびっくりさせるような表現はほぼなく、じわじわくるタイプの怖さ。じっとりした湿度高めな物語がこの時期に観るにもよく合っている。後半ホラー展開が加速してからはどうしても暗転頻度が上がってしまうけど、暗闇の中での音の演出によって集中を切らさずに観れた。

 

この物語って死者に対して罪を持つものが裁かれる地方因習ホラーでありつつ、それと重なり合うように家父長制の呪いを描いていると解釈してる。海からやってくる「おわたりさま」は封建制度において支配者に見殺しにされた民であり、同時に母親に呪い殺された娘、父親に絞め殺された息子、男に弄ばれた女だ。出奔した後継の娘・瑠璃を許せず呪い殺した翡翠、横領を指摘され息子・安を殺した光義、数多くの女を弄んだ純、それぞれに後ろ暗いところのある彼らは報いを受けることになる。ただ別に霊は勧善懲悪なわけではない得体の知れないもので、その証拠としてラストで稔梨は何者かわからない存在によってあの世へと連れていかれる、この後味の悪さがJホラー的。あと劇中は1995年なんだけど、紅雄が助手の斑鳩さんに民俗学の意義について語るシーンの「糸が切れる恐怖」は、現代社会での歴史修正や人文学軽視についても地続きに当てはまると感じて、こういう何かの話をしながら同時に二重写しで別のことについても感じさせる、みたいのは演劇のおもしろさのひとつだと思っているので印象深かった。


高羽さんがインタビュー記事で「可哀想萌え」があるという話をしてたんだけど、自分も多分そうなので死ぬほど興奮してしまった。みんな可哀想!特に西尾さん演じる紅雄が本当に可哀想でかわいい。紅雄は稔梨のことが好きだが全く報われず(「良い客」「良い友人でしょ」のシーン切なすぎる、友人って言われたくないよな…)最後の渾身の叫びも受け入れられずに手を離され、稔梨はあちら側へ行ってしまう。絶対あのあと稔梨のこと忘れられなくて自分を責めるけど、「紅雄は生きてる人のこと考えて」って言われたから死ぬこともできないんでしょ!ダブルヒロインの意味めちゃくちゃわかった、というか負けヒロインだよ!焦ってわたわたしたり、稔梨の婚約者の告発にキレてるのが愛らしくてびっくりした。西尾さんのこういう役新鮮なのにとってもよくて本当に演劇おばけ(褒めてます)


紅雄の助手の斑鳩さんもほんとにいい、斑鳩さんがいなかったらこの話最初から最後まで地獄だもん。ifの話だしそれを押し付けたいわけでもないけど、紅雄を救えるとしたら斑鳩さんしかいなくない?ヒーローみがある、陽キャのギャルってすごい、大好き。斑鳩さんって紅雄への態度とかセクハラの指摘もだけど完全に家父長制の呪いから切り離されたところにいて、その健康な軽やかさが救い。


刹那くんもさあ!個人的解釈ではラストで中身が抜けた刹那くんだけが現実に残ってると思うんだけど、その後稔梨と貞広さんがどうなったかを聞いて、自分をほぼ唯一心配してくれた人たち(まあふたりとも刹那くんを見ているわけではなく彼に重ねて死人を見ているだけなのですが…)の末路を知ってどう思うんだ。もしくは中身が抜けた時点で彼も終わってしまっている可能性もあるラストシーンで、それがまた良い。というかブレイキング・ザ・コードでも思ったけど田中亨さん若いのにすごい演技うまくないですか?貞広さんと刹那くんのシーンがあまりにも良くて時が止まった。貞広さんが明らかに狂ってるんだけど、どこか純粋さも感じさせる眼差しで、それを受けた刹那くんが口元だけで笑うんです、その笑顔がこれ見せられたらなんでもしちゃうわ…って説得力と怖さがあって本当にいい!その後怪異のターンでいろんな人格を演じていくところもすごい。白いロンTの衣装が何者にもなれる空洞みがあってよく合っていた。


貞広さんも…というかこれひたすら全員について書く記事になってしまうな。貞広さんは村のホモソヒエラルキーの中で踏み躙られる側で、その鬱屈からの狂気、そして瑠璃ちゃん(刹那くんの母であり村から逃げて亡くなり霊になっている)へのピュアな愛が入り混じってて、この表現言い方が難しいんだけど、気持ち悪さとギリギリのラインの美しさがあった。「なんだ瑠璃ちゃん、そこにいたんだ」で泣きそうになってしまったし、あの瞬間が客席に背を向けていて顔が見えないのもいい。貞広さんは逃げ出す瑠璃ちゃんに手を貸したけど、自分も逃げるという選択はできなかったんですよね。それが悲しいな。

 

光義は逆に完全にホモソヒエラルキーに取り込まれている側なんだけど、もっと大きな枠組みで見ると小さな村の議員にすぎず、必死に村の生き残りをはかっているという面もあり、そのあがきが悲劇を生む。全然擁護はできないけど彼の客観的な位置も見えることによって自分は一抹の哀れさも感じた。声のデカさ、外面はいいけど中の人間に対して見せる支配性、ピンクのシャツなど、全体的に「こういう田舎のおじさん」の解像度が高い。土屋さん初見で、スペースでキュートな感じで喋ってたのとあまりに別人すぎてびっくりしちゃった(まあそれは皆さんそうなのですが)


すずちゃんは斑鳩さんと一緒にギリギリ脱出できてよかったね…と思う一方で、明転前の「安さん!入らないで!」があるからその生まれた子供って大丈夫??という気持ちがすごく、すっきり終わらないJホラーみが増している…と思った。稔梨もハリウッドならあそこでギリギリ紅雄に手を引かれて飛び出せるけど、Jホラーでは助からないよね…というわかりみがある。


稔梨については、あのラストは(最後のセリフで翡翠さんが断ってた意味がわかるのでハピエンではないんだけど…そして冒頭の怪談が回収される)ある意味彼女の希望に沿った展開とも言えるし、あと稔梨も結構エキセントリックな瞬間があるので、自分としては適度に距離をとりながら観ることができた、過剰に思い入れすぎないというか…稔梨が刹那くんを助けないと!って強弁するシーン、突然アクセルぶっちぎった違和感があってめちゃ怖いんだよな。稔梨は裕弥を生かしておきたくて盗作したというし、それもある程度は真実なんだろうけど、そのあとその事実を公表せずに作家になったのは明らかに意図的なので、罪がないとは言えないと感じるから、あのエンドは好きだ。


翡翠さんについては、捉え方が難しい存在で、それを絶妙なバランスで表現しているかんのさんがすごい。彼女はイエ制度における被害者でもあるが、同時に瑠璃に対して呪いをかけた加害者でもある。翡翠と瑠璃の対峙シーン、気づいたら舞台奥の本棚に冒頭出てきた瑠璃の顔が潰された遺影がかかってることに、たしか舞台中央で首を絞め始めたとき気づいて、演出の視線誘導が完璧…と思った。すずちゃんに対して口は悪いながらも心配して助言しているのが、彼女にまだ残る一抹の人間らしさも感じさせる。でも翡翠さんは純に分家筋でまともなのはお前だけって言ってて、それは貞広さんは瑠璃の逃亡に手貸してるし光義は息子を殺してるからだけど、純の女癖についても知らないわけないよね?となると女癖については不問に処してるわけで、やっぱりホモソに取り込まれてるんだよな…。


ここからは全部オタクの叫びです。

わたしは神農さんのオタクなんですけど、常磐純があまりにも刺さりすぎてめちゃくちゃになってしまった。フィクションにおけるクズって最高なんですよ!!!

純はスーパー女癖最悪医師で、おそらく以前のおわたりで気が触れてしまった看護師というのも彼が何かしら絡んでる。下手だったので追い詰められるシーンの最後、窓に看護師が出てくるところがハッキリ見えきらなかったのですが(あそこみんなわかってるのだろうか)台本で理解できた。というか、冒頭てっきり穏やか人格者枠か?という感じで入ってきて、でもすずちゃんとの会話でおや?とさせ、その後も一見優しげに振る舞いながら稔梨を脅すシーンで本性出してくる緩急が本当によくて…にこにこしてるのが逆に最悪で…そしてそこから怪異に追い詰められるシーンの取り乱し方…盛りだくさんすぎて高羽さんに心の底から感謝という気持ちです…。

純って「東京の大学に行ってた」というプロフィールとか、物腰の柔らかさで一見進歩的な男性に見えるけど、めちゃくちゃホモソに適応した男であることが貞広さんへの態度とか稔梨へのセリフに滲み出ていて、それが大変味わい深い…いや人間としては極めて最悪なんだけど、最悪人間を演じる推しからしか得られない栄養ってあるので…。これで名前が純っていうのもいいし、柄シャツに白衣ってビジュが最高すぎて脳が焼けた。

 

とにかく全員演技がうまいし(宣伝スペースで高羽さんがうまい役者さんを起用しているみたいな話してたけど、本当にそう!って感じ)ホラーのギミックもおもしろいし、エンタメ性もありつついろんなことをぐるぐる考える話だし(あと物語のその後についてすごく考えてしまう、これは刺さっているときの傾向)そういうわけで人の感想が読みたいのでシアタートップスに行ってください!!9日までです。4日と5日はアフタートークもある。

善悪で割り切れない世界が愛しい

劇団壱劇屋東京支部「PICKAROON!」擬似家族ものが好きなので観たいのに全然予定が組めず、でもどうしても観ないと後悔する気がしてAチームをねじ込んだ。行けてよかった。結局週末にBも観る。ネタバレしています。


冒頭、記憶を失った少女が浜辺に佇む。偶然出会った女性が彼女を気にかけ、周りに落ちていた日記を読んでみるように勧める。少女は日記を読み始め、彼女の生い立ちが語られる。

七人の盗賊が、盗みに入った王宮で偶然赤ん坊を拾い、御姫と名付けて育て始める。御姫はすくすく育つが、やがてこの国の執政官として天子を補佐する佐久間が七賊を捕えようと動き出す。実は佐久間は国の安定を保つため、何者でもない赤ん坊を攫ってきては育て天子としていて、御姫も本来その赤ん坊だった。族が侵入した際に天子が殺されてしまったので、七賊の1人・百式変容の伊武(自在に外見を変えられる)の技を参考に、犯罪者の顔を天子のものに整形し、香で記憶をなくさせて傀儡にしていたが、御姫を新たな天子に据えようと考えたのだった。そして、七賊の1人である不動の男虎(何も喋らない居合の達人)は、母を人質に取られ佐久間の配下となっていた。

佐久間の策によって七賊は一度バラバラになり、御姫も佐久間の手に落ちるが、伊武が能力で男虎の母がもう死んでいることを暴き伝え男虎を戻らせ、そして各々の力を活かし一度は御姫を救い出す。しかし追っ手が迫り、賊たちは自らを犠牲にして御姫を逃し、記憶をなくす香と共に船に乗せて海の向こうへ送り出す。そして冒頭のシーンにつながる。

絶望する御姫を浜で出会った女性が励まし、御姫は生死不明な賊たちを探すために歩き出す。その後ろでそっと消える女性と、高台から彼女にエールを送る賊たち。伊武は描いたものを一度だけ具現化できる筆というのを持ってるんだけど、女性がそれで作られた存在だったことがここでわかる。明確に語られてるわけじゃないけど七賊は全員死んでいて、雲の上から見守っている的な表現だと解釈した。


(これ今書きながら思ったのでブログに書くことでもないし今更なんだけど、気になるので…前の天子ってなんで殺されたの?紙研さんが男虎に「御簾の中から出てきたのはなぜだ」って聞いてるから、この時点でもう佐久間配下なんだと思うので、男虎が殺したわけじゃないよね?天子と思わずに賊の誰かが殺したのかな)


今回特に凄いと思ったのが紙研と陸上兄妹。紙研はポルフィリン症みたいな体質で太陽を浴びると焼けてしまうから、常に番傘をさしているクールな盗賊。Aチームでは西分さんが演じている。大量の紙を操って戦う。ただ紙は無限なわけではなく、多分傘に仕込んであって使いすぎると弾切れになる。御姫に尋ねられ体質について語るシーンで紙研は、いつか太陽をぶち壊すのが夢、そこまで飛ぶために技を磨かないとと話す。ラストバトル中、高台で敵兵に追い詰められる御姫を見た彼女は、紙を全てそちらに向け、御姫の翼にして逃がす。そして全ての紙を使い切り、ボロボロになった傘では日光を防げず焼け死ぬ。このシーンの「飛べ!」と叫ぶ紙研、そして紙が集まって白い翼を形作る光景があまりにも綺麗で悲しく、ぼろっぼろに泣いてしまった。紙研は最後に天使を見たのかもしれない。なんの映像も装置も使わないで、こんな美しいシーンが作れる竹村さんって、やっぱり天才だと思う。


陸上兄妹は、途中で血の繋がった兄妹ではないということが匂わされるんだけど、実は兄の角が愛する妹を殺すことによって絶頂を感じる特殊性癖で、そのために血の繋がらない飛を妹役にしているということがわかる。角はそこまでわりとコミカルなキャラなので、この不穏な設定とのギャップが際立つ。そして飛は自分の妹を角に殺されていて、仇を打つために角の妹になった。「本性を見せたときに殺すつもりだった」みたいなセリフがあるから、多分正面から戦っても勝てないから隙をつくためだったのかな。このふたりの存在が、この物語を単なるいい話で終わらせない深みを生んでいると思う。角はラストバトルで飛と御姫を庇い、敵に「お前らなんかに殺させるわけねえだろ」と言う。愛してて自分の手で殺したいから、他の敵からは守る。それは側から見たら狂気だけど、角の中では筋が通っていて、そしてそのエゴを最後まで貫き通して死んでいく姿は、最悪なんだけど同時にカッコいい。この役を成立させている小林さんがすごい。そして最後まで御姫を守り、船に乗せて送り出す飛もめちゃめちゃカッコいい。追っ手が迫る中で船を見送り踊るシーンで爆泣きした。三田麻央さんすごいです。


佐久間は天子を人心の象徴だというけど、それって裏を返せば賊たちにとっての御姫にも当てはまる。いがみあっている賊たちはなぜか無条件に御姫を愛して守り、彼女がいるから七人はまとまったままで暮らしている。人は誰しも心のよりどころが必要で、それは賊といえど例外ではない。その人間のどうしようもない愛らしさ、善と悪が同居する矛盾みたいなものが詰まった作品だと感じた。

善悪で言うと、義賊の力石の最期がかなりキツい。力石は「やらない善よりやる偽善」をモットーに盗みで得た金を貧しい民に配り支持されている。街に逃げ込んだ彼は一度は庇われるが、佐久間が「力石が天子を殺害した」と告げると皆手のひらを返す。竹村さんの作品って「権力者の煽動によって唆され、暴力や破壊に走る民衆」のモチーフが頻出だと思うのだが(「パラデュール」の青の国もそうだし)今回もそれで、誰も力石のことを信じてくれない。ラストバトル、民に手を出すかギリギリまで逡巡した力石が、陸上兄妹と御姫を逃すために民に刃を向けるシーンのつらさがすごい。力石は「助けた人のために」いつも笑顔でいるようにしていて、このときも笑顔になって群衆に飲まれていく。力石を演じる淡海さんの笑顔がまた良すぎるんだよな…。


当パンで竹村さんが、一瞬のためにすごい時間をかけて作ってる的なことを書いてたんだけど、絶対そうだなと思った。舞台って本来カメラは動かないのに(場転があっても1カメ2カメが切り替わるだけのはず)壱劇屋って装置を移動させることでぐいぐい動くんだよな。よくあの大量の足場移動覚えられるな…と毎回感嘆する。あと七賊が崩れた後、紙研さんが街で追われて逃げるとき、途中壁にピンスポ当たって一瞬立ち止まるシーンとか、なくても別に話はわかるけど入るとカッコいいシーンみたいのをめちゃくちゃ入れている印象がある。こだわりがすごい。


前回のパラデュールで初めてセリフありの壱劇屋を観て、面白かったんだけど、めちゃくちゃ正直に言うとセリフ部分の経験値のばらつきがどうしても気になってしまっていたが、今回はほぼ気にならなかった。ひとつには序盤は御姫が日記を読むのに合わせて物語が進むので、マイムやアクションでノンバーバルに表現されるシーンが結構多いためだと思う。あとそんなことをぶち超えて物語とキャラと演者と殺陣と演出にぶん殴られたのかも。


去年の「五彩の神楽」で壱劇屋に出会ったが、今回その動員目標の約2倍?を達成したらしく、確かに今回も気づいたらチケットがなくなっている日が多かった。現在進行形で劇団が売れていってるんだろうなと思う。今回すみだパークシアター倉だったんだけど、もっと広い舞台でも観てみたい!(演者は大変になるだろうが…)あと全員殺陣がうまいのだが、特に角を演じる小林さんがいつ見てもアクションおばけ。パラデュールは殺陣ややひかえめだったので(弱いキャラだったから)今回はバチバチに身体能力を浴びられてとても良かった。「戰御史」で本格的に壱劇屋を好きになったので…終盤のバトルかな?下手で足場の上から飛びかかる石川さんをほんとにギリに見える感じでかわした瞬間があって震えた。良すぎる。

Bはこれから観るんだけど、役の性別が変わっているところもあるのでどうなるのか楽しみ。観たら追記するかもしれない。

澄んだ瞳の神様

音楽劇「ダ・ポンテ~モーツァルトの影に隠れたもう一人の天才~」感想。去年同じ題材の「逃げろ!」を観ていたので興味を持った。とても良かった。


ニューヨークで妻と暮らす老年ダポンテの回想から入り、モーツァルトと共に新作オペラの創作に励んだウィーンでの約4年間を描く。さらに劇中でダポンテが回顧する形で彼自身の幼少期からの半生も描かれる。

「逃げろ!」は明確にダポンテを凡人、モーツァルトを天才と位置付けていたが、本作はタイトルにもあるようにダポンテも天才として描いている。ただ、モーツァルトとダポンテでは生まれ育ちやそれによる価値基準が大きく異なり、それによって彼らが辿る運命も異なる。この対比がよかった。

モーツァルトは宮廷作曲家の父のもとに生まれ、幼い頃から宮廷でピアノを演奏するような育ちで、自分の好きな女性(コンスタンツェ)と結婚して愛し愛されている。だから彼は最終的に死期を前にして、自分のやりたいことをやれれば名声なんて得られなくても構わないという強さに至れるのだと思う。対するダポンテは、被差別者であるユダヤ人ゲットーに生まれ、初恋は父親の後妻で実らず、やっと出会った恋人のフェラレーゼにも職を失って捨てられる。こんな境遇だったらそりゃ成り上がるしかないよな…とダポンテに共感してしまう。ダポンテが「フィガロの結婚」など、現体制を皮肉るような作品を作れるのは彼が何も持たざる者だからで、でも、だからこそ地位を手に入れた後の彼は周りからの評価を失うことを過剰に恐れる。

かといってモーツァルトへの反感は生まれず、むしろダポンテが劇中で語るように、その澄んだ目で見る世界への憧憬が募る。この作品のモーツァルトって偏屈さとか社会不適合者感がかなり薄く、無邪気な子供みたいにかわいいんだけど(別れ際に「また遊ぼう」って言うのが象徴的)それはダポンテが語るモーツァルトだからなのかもしれない。終盤、モーツァルトが亡くなったとわかるシーン、十字架の光を背に高台に立つモーツァルトと、その前で地に這うダポンテという画がすごく美しくて、これは神への信心が薄いダポンテにとって、モーツァルトが自分に救いを与えてくれるという意味では神だったのかもしれないと思わされる。そしてダポンテはモーツァルトを負け犬と呼び、後世に名を残したいと望むけど、結果的に今も名が残ってるのはモーツァルトの方という一抹の哀愁も漂う。


登場人物ひとりひとりに奥行きが感じられ、書き割り的悪役になっていないのも良かった。たとえばコンスタンツェって悪妻とされているし確かに金遣いは荒いのだが、彼女がモーツァルトにダポンテとの仲違いについてアドバイスするシーンや、その後の生き方について語るシーンを見ていると、確かにモーツァルトへの深い愛が感じられる。サリエリもこの作品では、嫌味なだけではなく、イタリアオペラの振興のためという意思を持って創作を行っていることがわかる。ダポンテがウィーン追放となったときサリエリが歌う、後進のことを考えろみたいな曲は、サリエリは生まれつきイタリア人でアイデンティティもそこにあるからいいけど、ダポンテはとにかく承認欲求を満たせる場を求める中でイタリアオペラにたどり着いたということだと思うので順序が逆で、それを言うのは酷だよな〜(わかるけど)と思わされる。フェラレーゼもこの物語において唯一ダポンテと同じくストリート育ちの野心を持った存在として描かれ、とにかくのし上がるためにどんな男も利用するだけ、という姿勢がかえって潔い。フェラレーゼの歌をダポンテだけが高く評価するのって、恋してるからかと思ったけど、幼少時に広場で歌っていた彼女の歌にも惹かれていたわけなので、庶民から成り上がった2人にだけ通じ合うものがあるということなのかな。それぞれダポンテと対立したり彼を否定するシーンはあるけど、各々の意思が感じられるため愛しやすいし、あまり物語のためにキャラクターが都合よく動かされていない多面性がある。

脚本の大島さん、舞台では初めて見た方なのだが、ダポンテの初恋の相手であるオルソラからの「あなたがいてくれてよかった」という言葉と、モーツァルトと出会っての「君がいてくれてよかった」を重ねるくだりとか(ダポンテはその後「あなたになんて出会わなければよかった」という拒絶を受けており、それが承認欲求の根本に繋がっているのを感じる)、回想の中でさらにアンサンブルを使った回想を重ねる物語の描き方がわかりやすく上手いと思った。セリフも違和感がない程度に口語で気安く、聞きやすい。あとこれは演出かなと思うけど、最後老ダポンテがメガネを外し思い出の中へ越境していきそのまま2人が最後に作った「コジ・ファン・トゥッテ」のシーンで終わるのが、かえってもう戻らない幸せな時間を感じさせて泣いてしまった。


出演者全員歌がうまい。特に海宝さん。わたし普段あんまりミュージカル観ないので多分今更なことを言っていると思いますが、今まで記憶にないレベルで強く心を掴まれた。ドン・ジョバンニの曲の最後のロングトーン凄い。単に歌がうまいというだけでなく、セリフとして聴きやすく、同時に感情がバチバチに乗っていて、観客の中にまっすぐ飛び込んできて、あまりにもよかった。曲中で女性アンサンブルと絡むシーンとか、所作に下品にならないセクシーさがあふれていて、本当に色男!って感じで最高。さらに余裕綽々なシーンだけじゃなく、地に伏して足掻くシーンでもそれを上回るくらいセクシー。なんか他の作品も観たい…と言ったら友達にアナスタシアを勧められたので観ようかなと思う。田村芽実さんも、オルソラ(初恋の相手である義母)とナンシー(ロンドンで出会う後の妻)の2役なんだけど、きちんと別人(なおナンシーの若い頃と老後も演じ分けている)であると同時に、同じ役者が演じる意味もどこかに感じさせて、とても良かった。

総合して良いミュージカル観た…という満足感(音楽劇って表記だからミュージカルじゃないのかもしれないけど…そこの違いよくわかってない…)あとこれは自分が全然詳しくないのであれなんだけど、多分ダポンテのオペラの曲を劇中曲にしてるんだと思うので、オペラ好きだったらそれも楽しいのかもしれない。

森は息がしやすい

イキウメ「人魂を届けに」感想。言いたいことがいっぱいありすぎて全然まとまりがない!ネタバレです。


森の奥で迷った人間を助け、自給自足の共同生活を送っている山鳥篠井英介)のもとを訪れた刑務官の八雲(安井順平)。テロ行為で絞首刑に処された政治犯の魂が形に残ってしまい、彼が母と慕っていた山鳥のもとに届けに来たのだ。山鳥の家には八雲が職場で出会った陣(盛隆二)がなぜか先に着いていた。彼は公安警察で、山鳥のもとから街に戻った人間が次々とテロ行為を起こしているため、山鳥が社会からドロップアウトした人間をテロリストとして洗脳している疑いを抱いたのだった。

山鳥はある事件で夫を亡くしたことから国を憎み、街を離れて葵(浜田信也)、鹿子(森下創)、清武(大窪人衛)、棗(藤原季節)と森で隠遁生活を送っている。物語の中では体制側である強者サイドと、反体制である弱者サイドが明確に分かれ、陣と八雲は前者、それ以外の登場人物は後者に分類される。現代社会=街を離れ、貨幣経済と隔絶された森で暮らしている山鳥たちは、いわば競争社会から降りた人々だが、森で傷を癒した子らが街に帰っていくことも山鳥は止めはしない。


過去に観たイキウメは太陽、獣の柱、関数ドミノ、天の敵。今作はおとぎ話っぽい柔らかめな世界観かと思いきや、思った以上に具体的な現代日本社会への批判、新自由主義やマチズモにノーを突きつける作品だと受け取った。過去作ではここまで具体的なメッセージ性を感じたことがなかったので印象の違いに少し動揺したが(作中に政治的メッセージを含むことの否定ではないです、政治的でない創作なんて存在しないので)よく考えたら過去に観た作品は全て再演だったから(外の道は観れてない)前川さんが今言いたいことはこれなのかもしれない。


明言されているわけではないけど、山鳥の夫が仕事で嘘を強要され亡くなったエピソードは森友問題の赤木俊夫さんをどうしても彷彿とさせるし、現実を認めずに言葉の意味を捻じ曲げてはいけないというようなセリフは安倍以降の自民党政権への痛烈な批判だと感じる。山鳥を篠井さんが演じている理由が気になっていたのだけど、終盤で陣の不躾な言葉からおそらく劇中でも男性であることがわかり、男は母親になれないと告げられた山鳥の「そういうものになろうと思ったんだよ」という言葉が沁みた。そう考えると結婚していない、葬式で端に追いやられて〜というくだりもセクシャルマイノリティとしての意味合いなのかなと思い、同性婚を認めない家父長制社会への批判も感じる。山鳥は身体的には男性なのだろうが男性らしさから降りて母となり、キャッチャー・イン・ザ・フォレストとして人間社会から弾き出され森で死に向かう人々を助けている。いわば独自のセーフティネットである。棗と八雲が、ここを出たら自分もキャッチャーになると言うのがこの物語における希望になっていた。しかし陣が山鳥を危険分子扱いするのは、彼の価値観においては競争社会から降りた次元で生きる男性という選択肢は存在しないからこそ薄気味悪く感じるのかもしれない。また山鳥のもとから街に戻った子らがテロリストになっているというのは、日本社会で一度コースを外れた人間が復帰する難しさや行き場のなさを暗示しているのかもしれない。


安井さん演じる八雲の描かれ方がすごい。前半、公安という明確な権力であり、山鳥への暴力的な態度など明らかに有害な男性性を振りかざす陣と比べると、八雲は無害に見える。でも過去が語られていく中で、彼も彼で望んではいなくとも加害性を持つことがわかってくる。冒頭に浜田さんが、暴力を見逃して金を押しつけられることで魂の一部を奪われる「押し買い」について話すんだけど、これは現代日本社会で起こる様々な暴力や理不尽、権力による簒奪を否応なしに目にしつつ何もできずにいる我々の魂も少しずつ削られているということなのかなと思いつつ、中盤の八雲が悪気なく妻(浜田さん)を傷つけた後に対価の商品券を渡すシーンで冒頭の話がフラッシュバックし、こういうところで妻は八雲に魂がないと言ったのかなと思った。この八雲の行動って妻の意思を無視したハラスメントであり、妻との自他境界が曖昧になっている(妻を自分の所有物と見做している)家父長制しぐさだと感じる。

八雲の過去の描き方が、現在と過去が入り混じる形で明確な切り替わりもなく描かれ、浜田さんが八雲の妻、藤原さんが息子、大窪さんが八雲の足を撃つミュージシャンを演じるんだけど、役から役をシームレスに行き来する自由さが演劇ならではの表現だと感じて面白かった。あとテロに遭って右足が不自由になったことに意味や自らの価値を見出そうとする八雲の姿勢には陰謀論的なニュアンスを感じなくもない。


「俺は公安だ」というセリフでもわかるように、自身と権力を同一化し、マチズモを完全に内面化してしまっている陣は、自分の魂が削れていることに気付けないので森の家にとどまることはできない。八雲はまだ死刑制度に対する疑問符など社会的地位と自我の乖離を意識できているので、森の家で自分の魂を吹き抜ける隙間風に気づくことができる。この物語を男性のみ7人で演じていることに意義があると思う。ここに女性俳優を入れたら成り立たない。山鳥のもとにいる男たちはそれぞれに病んだり弱っていて、苦しげに咳き込むと他の男がその背を撫でる。これに最初やや見慣れなさを覚えること自体が、男性同士のケアが現代日本社会において一般的でない事実を示している。ケアの象徴を母とおくことへの疑問符は当初あったが、山鳥が男性だと明言されたことで、現実の女性はこの物語においては捨象されていて、あくまで現行の男性中心社会を象徴する“父”の対立概念としての“母”なのだと納得した。

役者が全員うまい。特に篠井さん、安井さん、浜田さんがすごいと思う。


個人的には色々な演劇を観る中で、最近はもうシスヘテロのロマンティックイデオロギーのみをなんの疑いもなく前提にした作品を観るとぐったりしてしまうので(それ以外にもっと描きたいことがあるから省略という場合はまだいいんだけど)そういう意味ではかなり息のしやすい作品で良かった。