言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

夢から夢へさまよって

daisydoze「Anima」めちゃめちゃよかった!最近イマーシブってすごく増えてて、正直単価も高い界隈だから初見の団体に行くのをちょっと警戒してしまう部分もあるんだけど、本当に観に行ってよかった。ネタバレを含みます。


大きなストーリーはあるが、どちらかというと物語を追っていくというより、美しい画やダンスに見惚れているうちにクライマックスになっていたという印象が強く、その感覚も夢の中っぽかった。夢って時間や場所が脈絡なく突然飛ぶじゃないですか。まず会場のホテル自体がいろんな若手アーティストの作品を室内に展示してるアートホテルなので、部屋ごとにまちまちの強い世界観があり、そこを移動していくのが夢っぽい。ツアー形式って楽しめるか不安だったんだけど、突然現れたキャラクターに別の部屋へ連れ込まれるような展開もあり、ずっとワクワクできた。というかこれ構造が全然わかんない、何シーンあって何ループなんだ?


イマーシブの設計は行動自由度と体験の濃さを両方担保するのが難しいと思っていて、特にシチュエーションごとの定員が少ないタイプの会場だとそれを顕著に感じる。泊まれる演劇「インディゴ・ホテル」を観に行ったとき、中盤から自由行動になるんだけど、ホテルの各室にキャラクターがいる形で1シーンに数人しか入れないので、タイミングが悪いと観れるシーンがなく館内をうろうろすることになってちょっともどかしかった。(泊まれる〜はその代わりに自由行動部分のシーンをループにしているのだけど、それはそれでループを目の当たりにするとちょっとNPC感が出てしまうなと思う)。この作品も会場がホテルなので1室の定員は少ないが、まず最初に10人ずつくらいフロア別に分かれ、その後は演者側が部屋に何人入れるかのコントロールをしているので、逆に2:1とかの少人数近距離で素晴らしいダンスを観ることができ、濃密な体験ができた。あと視界にずっとストレスがなかったから、すごく適正人数で開催されている気がした。見えないのが何よりも嫌だから…。ダンスシーンがいっぱいあってよかった!ただわたしはダンスを観るのが好きな人間なのですごく満足感があったが、そうでない人がこの作品をどう感じるのかはちょっとわからないんですけど…でも何にせよ大変美しいのは確かだと思う。あと発声禁止なのも良い。


東宝が入る意味はなんなんだろと思っていたが、芝居と歌だった。この作品ってダンサーと俳優のキャストがいるのですが、ダンスパフォーマンス部分を担うキャストと台詞演技および歌を担うキャストが明確に分かれており、それが相乗効果でうまく働いてると感じた。ダンサーさんってマイムでの演技は上手い方が多いけど、発声演技は違う能力だから、その部分を別のキャストが担うのは頭いいと思う。DAZZLEは役者の録音音声に合わせた当て振りの形をとってて、あれは常設という点においては最適解だと思ってるが、短期公演では設備等々で難しいだろうし、かつその場その場での誘導が発生する構造だからこのほうがいい気がする。あとクライマックスで歌とダンスが合わさるのは生観劇だからこそのエネルギーがあり、そういえばプロの歌があるイマーシブって行ったことなかったなと気づいた。


個人的に海神が踊りもビジュもあまりにも好きで、全シーン観たい!!!ベタ追いさせてくれ!!!という気持ちに支配された。すっごい至近距離なのに1秒も目が合わないし、動きが最高に不穏で怖くて本当に好き!誘惑と虚無も素敵だったな〜!!誘惑のシーツにくるまったところから始まる2on1良すぎた。乙姫もたぶん闇堕ちのシーン以降笑うようになるんだけど、その表情がたまらなく魅力的だったし、浦島は最初に見たプロジェクターのある部屋でのダンスが、あんなに狭いところでこんなに美しいものを見せられるんだと痺れた。学芸員ルートだったはずなのだが、わりと人外シーンをいっぱい観れた気がする。

全体的に画作りが各部屋の特徴を生かしていて、これはきっと演出の力。宇宙船みたいな内装のFloatという部屋で妻を弔うシーン、海底にいるみたいでしんとした気持ちになったし、中盤のおそらく全員集合する階段の吹き抜けでのシーンがすごく美しくて、そういえばこんなに上下を見る演出って初めてかもと思ったのもあって印象に残った。あと衣装とヘアメが全員とってもかわいい!誘惑が着物ベースなのとか、ホテル従業員はみんな白ベースにチェックの模様が入ってるのとか。薬草師の人のダンス好みな気がしたからもうちょっと観たかったな〜。


劇中で飲める薬草酒のカクテルがカンパリで(おいしかった)協賛入ってるみたいで帰りに瓶ごともらえた、資本を感じる…でも劇中で自然に飲食させられるってイマーシブならではの強みだと思うし、世界観にも合っていたので、イマーシブ界隈でこういう協賛が増えたら夢あるなと思った。ただ、協賛の関係で仕方ないのかもしれないけど、お酒飲めない観客からしたらノンアルカクテルもあったらうれしいよね…!

 

総合して自由行動なくても楽しかった。自分で何を観るかを選べないし、立ち位置とかで偶発的に分けられるシーンもありそうなので、多ステしても全部のシーンを観られるかはわからないんだけど、少なくとも次は複数公演入ろうと思う。物語を追うというより世界を揺蕩うという感覚で、それが夢というモチーフに合っていてよかった。でも個人的には世界観が好きだったので、シーンの定員制約が生じないタイプの会場で自由行動ありも作ってみてほしい気持ちもある。なんにせよ素敵なイマーシブを知れて嬉しい。次作も絶対観たい。

女たちの血と怒り

「未婚の女」感想。深作さん作品は初見。神農直隆さんが出演されているので観に行った。日本初演作品らしい。


冒頭ちょっとだけ仕事で遅刻してしまったのが悔しい。労働は悪。ドイツ戯曲を能楽堂でやるとのことで、どんな作品なのかまったく想像ついてなかったんだけど、めちゃくちゃ破壊的(という表現が適切なのかわかんないが)な作品だった。


三世代のドイツ人女性(祖母マリア・母イングリッド・娘ウルリケ)を、祖母の過去(ナチス政権下で脱走兵だと思った若者を密告し、彼が処刑されたことで戦後戦犯として投獄された)を軸に描く。4人の男性キャストは「四姉妹」とクレジットされていて、上半身がタキシード、下半身がドレスのような黒のスカートで、祖母が投獄されたシーンでは同室の女囚たち、裁判のシーンでは裁判官・検察官・被害者遺族・弁護士、現在にあたる病室のシーンでは看護師、そのほか娘が寝るゆきずりの男たちなど、コロスとして様々な役を演じる。これ元々は女性コロスだったみたいなんだけど、なんで変えたんだろう。個人的には男性が演じることで、女性の戯画性と男性の解像度が共に高まる気がしたのでこの方が好きかも(女性ver観たことないが)


物語は祖母が倒れたところから始まり、時間軸が飛びながら、少しずつ祖母の過去が明かされていく。途中で繰り返される「アンチポストモダン」を語る台詞にもあるように、価値観は覆りうるものである。しかしわたしはこの作品を通じて強烈な怒りを感じた。当時の女性たちは、兵士が村に留まることで配給の食糧が不足するのを憂いて密告に至ったマリアのように、生活に密着したごく小さな世界で生きていた(投獄後の女たちの労働や、裁判における証人の女性の台詞からもそれを感じる)また彼女たちは途中の解説にもあるように人口政策で子を産むこと、母になることを迫られ職も奪われていたし、そもそも戦争を始めたのも男性である。しかし戦後には逆転した価値観の中で男たちに裁かれ投獄されるという怒り。

突然オタクの感想を言うと、ここの裁判のシーンで検察官を演じている神農さんがはちゃめちゃによかった。いやここまでわたしが感じてきた女たちの怒りからしたら最悪なんだけど、声の良さも相まって身を任せたくなる権威性がある。永久に尋問しててほしかった。わたし高圧的な役をやってる神農さんのことめちゃくちゃ好きです。あと男性コロスのシーンだと宮地大介さん演じる処刑された兵士の父の独白も突き刺さるものがあってよかった。

 

イングリッドは母の過去からマリアを憎み、ウルリケはマリアに寄り添って日記を紐解く。途中でイングリッドエレクトラコンプレックスの元になったギリシア神話エレクトラを名乗り、斧を手に母への殺意を見せるシーン、爆音で音楽が流れ、赤い照明の中イングリッドも音楽の西川さんもサングラスをかけてクラップを煽り、絶叫される台詞、クラブか?!って思った。そして終盤マリアは自死し、多数の男と関係を持っていたウルリケは逆上した男に暴行される。結局現代を生きる彼女も男性によって人生を覆されるのだ。絶叫と暴言が飛び交い、能舞台という伝統的な場との不協和音で脳が混乱したが、あえてやっているのかなとも思う。あと、マイクを通す台詞と通さない台詞に何らかの意味があるのかなと思ったけどわかんなかったな!というか全然わかってない気がする。でも夏川さんがカテコで言ってたとおりわからないことがわかるというのも演劇観る上では大事なのかも、だって全部わかるなんてことは絶対にないもんな。


音楽が生演奏で、不穏な効果音とかも全部その場で鳴らしているのがおもしろかった。西川さんがキャストでも完全な裏方でもない絶妙な存在感で舞台上に存在していた。


普段よく観る界隈(という言い方も雑だが)とは結構違うため、神農さんが出てなかったらおそらく観る機会がなかったと思うんだけど、おもしろかったので観れてよかった。人を追いかけているとこういう予想外な出会いがあるのが楽しい。

この街のすべてがステージ

クルージングイマーシブシアター「海へ還る風となって」を観た。めちゃくちゃ感動してしまった。2日間しかない公演なので大丈夫かとは思いますが、すごくネタバレしています。


小さめの船で海から川を遡りながら、川沿いや橋の上でパフォーマンスされるダンスを観るスタイル。船上にもキャストが3人いて、録音音声に合わせた演技とダンスで物語を展開する。


横浜って江戸時代に埋め立てられたらしく(そもそもそれも今回初めて知った)そのときにお三という女性がなぜ人柱になったのか、を紐解く物語。お三は許嫁を五郎三郎(たぶん…)という男に殺されていて、その仇討ちを願って神仏に参っていたところ、新田を作るため埋め立て工事を行おうとするも度重なる氾濫で果たせずにいる勘兵衛と知り合う。お三を哀れに思った勘兵衛は仇探しに手を貸し、仇討ちは果たされる。お三はその恩返しとして自ら人柱に名乗り出たのだった。

出航時の船上キャストは勘兵衛の子孫である勘吉、勘吉の妹の三波、招待されてやってきた学者という3名なんだけど、三波にお三の記憶が宿っているというところから彼女の人生が振り返られ、面をつけて勘吉が勘兵衛、三波がお三を演じるシーンもある。同時に岸辺でも、お三・許嫁・仇の登場、人柱、氾濫する川、頓挫する埋め立て工事、仇討ち、人柱に捧げられるお三、といったシーンがダンスで展開される。


わたしは今までイマーシブシアターは自分で観るシーンを選び取る要素が重要だと思ってきて、それでいうと今作の構造はそれにはあてはまらない。でも本当にすばらしくて、イマーシブシアターの新たな可能性だと思った。わたしたちは横浜の歴史をたどるクルージングの客として船に乗船しながら、同時にはるか昔この地で起きた胸に迫る物語を目撃する。現実の横浜と、物語の中の300年以上前の横浜が二重写しになる。乗船が15時回だったので、かなり街に人も多く、おそらく何をやっているのか知らないだろうギャラリーもたくさん立ち止まっていたけど、それが没入感を削ぐのではなく、かえって演者と船の上だけが物語を共有しているという没入感を生んでいると感じたので、わたしはこの時間に観れてよかったなと思った。夜は夜ですごく綺麗そうだけど!


何がすごいって、イマーシブシアターって上演できる会場を探すのがかなり大変って前に飯塚さんが言ってたが、このスタイルは街全部が会場だから、空間の制約がなくどこでもできる!でも同時に、今回って横浜市のイベントで、そういう公的な企画じゃなかったら絶対難しいだろうなとも思う。橋の上の一部とか囲って人通らないようにしてたし、川沿いのビルの屋上使ってるシーンもあった。だから言い方が難しいけど、こんなことができるくらい認められてるんだ!という感動もあった(めちゃくちゃ大変だったのかもしれませんが…)

同時にこの形って他の自治体でも町おこし枠でできるんじゃないか??という期待も勝手にわいちゃったな。この作品を見たことで横浜の知らない歴史に触れることができて、わたしたちが生きる今に繋がるかつての人々の営みに思いを馳せるきっかけになった。船が折り返してから海まで戻る航路でも、船から見る街の景色がなんだか違って見えて、世界の彩度が一段上がったみたいにわくわくした。こういう体験を日本の(もしかしたら日本以外でも)いろんな街でつくれたらすごくない?


あと、改めてダンスって本当に素敵だなと思った。わたしはDAZZLEを好きになってからダンスの公演を観に行くようになったが、日本におけるダンス公演って自分もダンスやってる人や関係者が観ることが多いというか、自分は踊れないけどダンスを観るというのはまだまだメジャーな趣味とはいえないと思う。でもダンス観るのって、自分が踊れなくてもめちゃくちゃ面白いし興奮する。今日岸でのダンスを船から見ながら、ノンバーバルだからこそ表現したい出来事や感情がダイレクトに飛び込んでくるのを感じて、心に触られるみたいだった。お三が人柱になるシーン、橋に向けて白装束の一団が歩いていき、青い服を着たお三だけを残して去る。橋の上にいる黄色い衣装のダンサーは仏みたいに見えて、その中に混じって踊るお三を見ていたら涙が出た。あと最近の常設はどうしても空間的制約があるので(それにはそれの良さがあるけど)、制約が皆無な広い空間での群舞の美しさに見とれた。同時に船上ではすごく近い距離で、その役として生きてる人間の濃密なパフォーマンスを見せてもらえて、両方のよさがあった。船でこんな風に踊れるんだ!って、技術面でもやっぱりすごかった。かずさんの学者めちゃくちゃ好きすぎた…また観たい…。


本当に本当に素晴らしかった。わたしはDAZZLEに出会えたことで人生がとっても豊かになったと思う。これからもずっと見たことのないものを見せてほしいです。大好き!

 

あとこれ船上からストレスなくパフォーマンス見せるためには船をかなり繊細に操縦しなきゃいけないと思うから船長さんありがとうございますと思ったし、キャストはいっぱい移動してすごく大変な気がするので本当にありがとうございます、特にゆらさんと黒川さんは川入ってたけど夜とか超寒そう、あったかくしてください(あのシーンがクランプなのめちゃくちゃよかった!!)

まぶしくてよく見えない

ムシラセ「眩く眩む」感想。保坂さんが事前に書かれていたnoteや公開されていたあらすじ、トリガー警告を見て、きっとヒリヒリした作品だろうなと思っていたが、実際観るとすごく色々なことを同時に考えた。だからスパッと一言で感想は言えないが、とてもおもしろい舞台だと思う。ネタバレしています。

 

舞台はアニメ制作会社の会議室。白いテーブルと椅子、後ろにかけられた3分割のキャンバスには試し書きのような黒い線が引かれている。上手にドアと窓になる枠、下手にベンチとゴミ箱。客席側にモニターがある体になる。

WEBで自主制作アニメを公開し人気クリエイターとなった24歳の大河葵は、アニメ制作会社パインテールのプロデューサー・渡辺の誘いで、とあるテレビアニメの現場に原画で入ることになる。監督が不在のため代わりを務めている絵コンテ・演出の神崎は、その腕の良さでアニメ界では有名な存在だった。総作画監督であるベテランおじいちゃん・草薙、作画監督で神崎の右腕と言われる赤城、大河と同い年の叩き上げアニメーター・春原と不協和音を生みながらも大河は張り切るが、絵を出しても採用されず跡形もなく修正されることが続く。同時にブラック企業から転職してきた新人制作進行・姫宮は、彼女の上司にあたるデスク・竹内と共に初めての現場に入ることになる。

 

観終わって最初に感じたのが、作劇のめちゃくちゃなうまさだった。すごくメタなことから書き始めてしまうけど、観客の精神的位置のコントロールがうますぎませんか?冒頭の大河は(言い方が悪いが)かなりヤバめのモンスター新人に見える。「アマチュアではないです、訂正してください」と赤城に迫るシーンや、ベテランである草薙の指導を受けたくないとゴネるシーンは、観ているこっちが共感性羞恥でワッ…となってしまった。逆に、神崎と赤城がふたりではしゃぎ合うシーンや、その後の赤城の独白はすごく美しく見えた。あの時点では。三徹するほどめちゃくちゃなスケジュールでもここが唯一の居場所で楽しいと語る春原と、バズったクリエイターとしての戦略で強気な大言壮語キャラを演じていた大河が衝突しながら互いを知っていく過程も微笑ましいし、何よりも、たとえどんなに容赦のない言葉を吐き、他人に対して厳しくても、同時に自分にも厳しく、誰にも追いつけない孤高の輝きでペンを走らせる神崎は魅力的だ。神崎の態度って全然社会人として褒められたものじゃないし、発する言葉には心がざわつきつつも、圧倒的才能があるという前提がそれすらも魅力の一部のように見せてしまう。これは演じる藤尾さんの佇まいも大きいのだろうが、ストロボの中でコマ送りのように季節が移り変わる中、机に積み上げられた原画に向き合い続ける姿は、とても寂しくてエモい。

だから、姫宮がハラスメントであると告発したとき、最初にわたしの心によぎったのは反発だった。そもそも姫宮がメモを剥がしてなければ話はもっとスムーズにいったし、大河は悩まずにすんでたんじゃないの?と一瞬怒りを感じた後で、でも姫宮の言っていること自体はひどくまっとうだ、と思い直した。神崎が大河に直接言ったのは「使えないコマはいらない」や「ここで死ぬならそれまで」だが、ああいった言葉がメモに書いてあったのだとしたら、それは確かにハラスメントになりうる。メモを捨てたやり方には問題があると思うが、姫宮自身が前職での傷を抱えている中で神崎の言葉を扱いきれなかったのかもしれないし、アニメをあまりわかっていないからオブラートにも包めなかったのかもしれない。

何にせよあの場において、アニメーターサイドの全員が(大河自身すらも)一度はハラスメントの告発に対して否定的な態度を見せる。そして観客も知らぬ間に加害者側に感情移入(というと単純すぎる気もするけど)しているから、それを切り捨てきれない気持ちになる。現実に起きたハラスメントの告発を見るとき、何でそんなことになるのかさっぱりわからない、許せないという感情がわきがちだけど、現場にはその現場の事情や思いがある(当然だが、事情があるから罪がないということではない)そして自分の心の重心が加害者サイドに偏っている状態だからこそ、姫宮から放たれる言葉が鋭く突き刺さってはっとする。周りの気持ちがわかんないやつは頭はる資格ない、(クリエイターを)尊敬してるからがっかりさせるな、謝らないと先には進めない…全部自分自身がいつも思っていることなのだ。


でも観劇後に友達と話したら、彼女は姫宮の告発に対して初手から共感していたと言ってて、これってもしかして自分の内面を映す鏡でもあるのかもと怖くなった。突然自分の話をしてしまうが、わたしはハラスメントにおいて(万人がどちらの可能性もあるという前提の上で)どちらかといえば加害側になるリスクを持っていると思う。短気だし、言葉が直接的だとか高圧的だと言われる。過去に上司から、今お前は平社員だから問題にならないけど、管理職になってその物言いだったら絶対にパワハラになるぞと言われたことがあり、自分より権威勾配において弱い立場の人に対しては特に気をつけて喋るようにしているが、根本的にはそのリスクを内包しているんだと思う。だって神崎の「上手い下手しかないのに、人格否定って言われるの、わかんなくて」というセリフ、ちょっとだけ共感するもんな。多分創作現場でも「ハラスメントしてやる!」と思って罪を犯す人よりも、これがハラスメントになるのだという自覚なしで引き起こしてしまう人の方が多い気がして(繰り返すが、故意でないから罪がないということではない)、それを改めて省みるきっかけにもなった。だからこの作品をどう感じたのか、いろんな人の感想が見てみたい。あと、告発者側である姫宮のことも完全無欠には描いていないのが良いなあと思った。彼女はアニメが好きではないから、紙切れという発言があるようにアニメに人生をかける人間の気持ちはわからない。勧善懲悪なんてそんな単純な話ではないんだ。


またもうひとつ個人的に刺さったのが神崎、赤城、大河の構図。この物語は創作現場でのクオリティの追求とハラスメントの防止におけるジレンマについて描いてるけど、同時に天才と凡人、才能というテーマも描いていると思う。神崎は周りから天才と言われているが、彼自身にはそもそもそういう自意識がなく自分を普通だと言うし、呪いかのように絵を描くことに囚われている。周囲からの強い期待が彼をそうしてしまったのかもしれない。赤城は神崎が認める存在ではあるが、神崎の才能に対してコンプレックスを抱きながらも、コミュニケーション力や社会性に欠けた彼をフォローしてきている。

大河はそんな神崎と赤城の関係を共依存だと指摘する。大河自身が過干渉な母親に支配されていた過去があり、赤城のことをママっぽいと言い、神崎に対してもうちの母親と似てると言う。赤城は神崎の眩さをすぐ近くで浴びすぎることで、彼自身の眩さを失ってしまっているし、神崎は神崎で赤城が過剰に守ることで変われずにいる。そして大河は神崎を眩しがらない。これ、赤城の独白のシーンでは上手から強くて白い照明が赤城に当たって、眩しげな中で語るんだけど、そのあと大河が神崎のメモを見ているシーンでも同じように上手から今度は暖色の照明が照らし、ただ大河は奥側に座っているので眩しくはない構図で、それを上手から赤城が見ているのが象徴的だなあと感じた。大河と神崎って少し似てるのかもと思う。大河も春原に対して平気で絵が下手って言うし、神崎のメモにも結局決定的なダメージは受けていない。神崎は劇中で(上着は着せられるけど)たしかずっと白いTシャツかシャツ姿だったと思うが、最後一度はけてラストシーン黒い衣装に着替える。そしてかつての神崎と同じ白いロンT姿の大河が、神崎が冒頭座っていた椅子で神崎のように絵を描いているその向かいに座り、描くふたりの目が合った瞬間に暗転して幕。この終わり方が画的にすごくかっこいいと同時に、「一人でなんて、つまんないですよ」と集団創作の希望を語り、神崎から「向いてる」と評された大河が、いつか監督として健全な現場を作っていく未来にも繋がり得るのかもと感じて泣いた。眩しく光るものって直視できないから、それ自体がどんな姿をしているのかはよく見えない。神崎を眩しくないという大河だけが彼の孤独に触れ「逃げてもいいですよ」という言葉をかけることができて、それは「何も見えなくなったとしても、最後までついていける奴になりたい」赤城にはできないことなんだなと思うと…神崎が赤城を「努力の天才」と表すシーン、赤城の表情を見損ねてしまったので、そこをどうしても見たくてもう一回入りたい。めっちゃ書いてるのでお察しかもだけど天才になれない秀才がヘキなので(しかも人当たりの良いヒゲ…)赤城が好きです。でも神崎が辞めたあと赤城はちゃんと監督やれてるわけで、やっぱり自分の眩さを取り戻すには離れることが必要だったんだなと思った。


アニメ現場の話だが、語られる色々は演劇にも通ずると思う。大河が神崎に何がダメなのかわからないままにリテイクされるくだりは、稽古でわけもわからずダメ出しされる役者の声にも感じた。しかしこれは現実でも思ったことがあるが、自分自身で何かをする能力と人にそれを教える能力って別に連動していないはずなのに、できるなら教えられるという前提になることが多いのも危ないよなと思う。多分これまでは神崎の上に監督がいたから問題が顕在化してなかったんだろうな。あとそういう事情で人が足りていないことや、現場にお金がないこと、その中でも神崎が作品のクオリティを突き詰め続けることでどんどんスケジュールが逼迫していくのも演劇創作と通ずる。渡辺の台詞にもあったけど、お金があればちょっとはどうにかなることもあるはずなのだ。

そして何より大河が、自分ひとりでも自主制作アニメを作れるのにテレビアニメ現場に来た理由を語るときの言葉が、すごく演劇をつくる理由にもつながると感じた。みんなでつくるからこそ、ひとりでは行けないところに行ける。だから集団創作をする。


細かいけど、新人の姫宮に上司の竹内が紹介するという導入によって一般人には馴染みのないアニメ制作現場の分担をわかりやすく説明していたり、冒頭からあった雨漏りが、途中の大河が飛んだと思われるくだりにもラストのあの画にもつながっていたり(あと、現場にお金が落ちていないということも示している)本当にお話を作るのがうまい〜!と思わされた。完全に小さな会議室のワンシチュエーションで進むのもすごい。そしてパインテールという会社の名前…。ちなみに推しチケットを買うと、グッズを劇中で原稿やり取りに使ってるパインテールの封筒に入れてもらえて、回収帰りの姫宮の気持ちになれる。あとそれに劇中では神崎のハンコが押されてないんだけど、グッズのは押されてるということを保坂さんに教えてもらって感動した。本当に神は細部に宿るんだ…。

 

わたしはアニメ業界に詳しくはないのでディテールについてはわからないが、今回もきっと丁寧に取材して作られてるんだろうなと思った。過去にエンタメ系の小さめな会社で働いていたことがあり、キャラクター同士の距離感にどこかそれと近いリアリティ?を感じたため。あとこのテーマだけどしっかり笑えるシーンも散りばめられている。昭和なコケ方とか「働きの波動」とか、いつもお菓子持ってるのとか、でもいざというとき(ティザーの件や最後など)しっかりフォローするところ、渡辺のこと好きだったな。板挟みになりすぎた竹内が爆発するところも、全然笑ってる場合じゃないんだけど、さすがに笑った。

またややメタな話になるけど、この作品において登場人物それぞれを愛せることはすごく大事な気がしている。上にも書いた通り、ハラスメントはダメ!という勧善懲悪断罪になってしまったら逆にそれはフィクションすぎる。わたしはひとりひとりを好きになったからこそ、そこにある罪やジレンマと切実さをもって向き合うことができたと感じるから。本当にみんなよかった。ムシラセを観るたび、出演者全員最高!と思って出演者のことを好きになる。そんな演劇ってすごい。春原がずっと憧れていた神崎に名前を覚えられていないとわかるシーン、一瞬の表情の動きがすごくて泣いちゃった。

 

保坂さんの作る舞台がとっても好きなので、もっともっといろんな形で観れたら嬉しいなあと思う。今後の展開もめちゃくちゃ楽しみ。

まだテーブルについていたい

果てとチーク「くらいところからくるばけものはあかるくてみえない」函波窓さんが好きなので観に行った。いろいろ思ったことはあるけど、全体としては好きだった。かなり情報量が多く、各所にモチーフが散りばめられているため、台本も読んだが自分がちゃんと拾えているのか全然わからない。


かつて存在した母恵会というカルト宗教団体コミューンで子供時代共に過ごしたルイ、ソラ、ミウ、ナツ。コミューンは地母神崇拝の名のもとに一妻多夫制をとって少女を信者の男にレイプさせており、太陽の巫女に選ばれたソラが教祖を殺害、自身もリンチされ亡くなったことで崩壊。そこから時が流れ、ルイが夫のキミタカと共に、大学の先輩・キリエに誘われオーガニック自給自足NPOであるヒラヤマ大地の恵み会に参加するようになったところから物語が始まる。大地の恵み会は母恵会の生き残りが新たに立ち上げたスピリチュアル団体だった。かねてから希死念慮に苦しみ、かつて母恵会の事件が起きた神社=ソラが亡くなった場所を死ぬために訪れたルイは、そこで突撃系YouTuberになっていたナツと偶然再会し、なぜか鍵が開いていた本殿の中に奇妙なものを見る。その日から、インターネットの盗撮エロ動画サイトを発信源に呪いの動画が広がる。観た者は赤い服の少女=ソラと巨大なミミズの影に怯え、やがて目を潰されて死ぬ。動画は拡散され死者は増加の一途を辿り、社会は機能不全に陥っていく。


ジャンルとしてはホラーらしいが怖いとは感じなかった。人はめっちゃ死ぬ。最終的にキリエの夫のマサヤ(東大卒証券マン、不妊に悩むキリエにモラハラをしていた、アングラ盗撮動画サイトを見ていて呪いにかかったことでキリエと立場が逆転し、ヒラヤマへの移住を強硬に勧める彼女をたぶん撲殺)と、ルイの夫のキミタカ(ルイに対し彼女が求めていない第二子の妊娠を要求し、実際妊娠させる、悪気なくシスヘテロ中心主義や母性信仰的な発言をする)は死ぬ。ソラとミウの母であるケイコもおそらく死んだと思われるシーンがある。

“お母様”がミミズなのは大地と結びつくこと、劇中のセリフにある雌雄同体という特徴、あと目を潰すという死に方はミミズに目がないことから来ているのかなと思っていたが、アフタートークで視線がひとつのキーになっているという話を聞き、そう考えると男性と女性がまなざす・まなざされるの関係になりがちな現代社会(その最悪な例のひとつが盗撮サイト)への反旗として目を潰すという表象になっているのか。


ルイはヒラヤマにいた頃に性暴力を受け、その動画が盗撮サイトで拡散されたという過去がある。ミウも同じ村にいたことを考えると同様に性的虐待を受けていたことが予想され、序盤の車の中での(この時点ではピンと来ていなかった)ミウからルイへのセリフが腹落ちした。ミウがルイに大丈夫でいてほしいと思うのは、それが正しいかは別として、自分も大丈夫だと思いたいからってことなんだと思う。また、ソラは当時ルイからそれを聞き、ルイにあんなことした奴らを全員殺す、と言って事件を起こし、ナツに一部始終を撮影させていた。ケイコは残った信者たちと共にソラと“お母様”=巨大ミミズの体をひとつにしたミイラを作った。それをルイが目にしたことで“お母様”の力と「ルイを一生守ってあげたい」というソラの思いが魔合体した形で呪いが発動したと理解したんだけど、ケイコの行動の動機がよくわからなかったな。母恵会は女尊男卑に見せかけて実際は女体を搾取するカルトという理解だが、ケイコは名誉男性的に搾取する側にいたのか、そうだとしたらソラの呪いを育てた理由は何?

あともうひとつ、現代社会の話という認識で観ていると、キャラクターたちがかなり抵抗感なく呪いの存在を受け入れていくことにちょっとギャップを感じた。マサヤだけは信じてない、精神病だという描写があるけど、そもそも動画を見たら死ぬって非現実的な話なのに、それを皆そういうものとしているのが結構戸惑う。実際に死ぬ人が増えたから信じざるを得なくなる、ということだとしたら変化の部分があまり見えないというか、転換で後ろに文字を投影して話を補足する演出があり、これ自体は別にわかるんだけど、クリティカルな部分(動画の説明や、たくさん死んだ、事態がどんどん悪化していくなど)がこれで完了していくので感覚としてついていけないのかも。


セリフで聞いているだけだと人間関係の把握がちょっと難しい気がする。ルイとミウが同い年なので同級生でソラはミウの妹、ナツも含めた4人は地恵会の村で育った(ルイは「野ブタ」を知っているので数年前まではテレビを観られる環境にいたようで、おそらく途中で親がハマって引越してきて、性暴力を受け動画が拡散されて巫女を降ろされ東京に戻った)、キリエとルイは大学の先輩後輩(ミウもキリエのことを知っているので同じ大学と思われる)、ケイコはミウとソラの母だがキリエはそのことを知らないしルイの過去も知らない、ミウもナツのスマホの動画でケイコを偶然見るまで母親が今何をしてるのかは知らなかった(縁を切ってる)、ミウの名字がサトナカなのは父親の姓ってことでいいのかな。ミウとソラって二卵性双生児?「学校来てくれないとぼっち」というセリフがあったのでソラとルイが同級生だと思っていたため、ミウとソラの関係性が最初わからなくて戸惑った。過去と現在のシーンが入り混じりながら話が進むこともあり、当パンに相関図とか、せめてテキストだけでも説明があるとより入りやすいかも…と思う。あと、めっちゃ細かいけどルイが31歳なので17歳当時が2009年ごろと考えると、iPhoneは発売されてたけどインスタはまだなかったんじゃないかな…。


アフタートークでもリプロダクティブライツの話が出ていたが、最後にソラを解放しようとルイが話すシーンで繰り返される「自分で決めていい」というセリフに強いメッセージを感じた。あと、ここの一人称がソラだけでなくルイも「うち」になっているのがいい。ここでルイがソラに対して「好き」と明確に発言するのは、ルイが同性愛者もしくは両性愛者であることを示したいのか?と思ったけどわからない。あと作中唯一生き残る男性であるナツは有害な男性性を持ち合わせない男性ということなのだろうか。

福井夏さんのソラが、最悪な状況下でもキラキラした高校生の煌めきと、人間離れした怪異の強烈な存在感を併せ持って印象的だった。川隅奈保子さん演じるケイコも、言い方が悪いがスピってる中年女性そのもので、人の心に入り込んでくる一見優しくて気さくそうな感じから、ミウやルイと対峙したシーンのざわつく感じが本当にすごい。函波さんのキミタカ、最初のなんかちょっと腹立つな…という余裕な感じのキャラから、呪われてどんどんおかしくなっていき、最後にルイと向かい合って話すシーンの追い詰められ方がとてもよかった。キミタカって暴力振るったり暴言を吐くわけでもないから、パッと見かなり無害に見えるのに、内面に理解し合えない断絶がある(自分が幸せな家庭で育って培った家族観を周囲に押し付けがち、ナチュラルに母性信仰、女性に自衛を求めるなど)造形が今をとらえてるなあと思う。ルイはキミくんって呼ぶけど、キミタカはママって呼ぶの、お前のママではないが?って気持ちになるな。しかし、キミタカとルイは本当になんで結婚したんだ…?ミウがルイに流されてるって言ってるから、キミタカからアプローチしたんだろうけど…。

 

白い布で包まれた机や椅子、中央に長椅子のブランコがあり、それが子供の頃のソラとルイが溜まり場にしていた廃車(どこにも行けない)と、現在ルイが運転する車に見立てられる。車を運転して目的地に向かうという行為も「自分が選択する」に通じるのかな。照明で蝋燭の火を使っているのが、そのシーンに間を生んでいて趣があるなと感じた。

 

「かんがえる果てとチーク ”だいじょうぶじゃない” 短編集」のときも少し思ったが、今回とみに家父長制や男性性への強めな怒り(というか正直に言ってしまえば憎しみ)を感じた。わたしは社会構造における怒りについては強く共感できるが、男性性への怒りというのはあまりわからず、そこが完全には入り込みきれなかった理由かもしれない。最悪な男もいるけど最悪な女もいるし、男と女だけでもないし…マサヤは確かにどうかと思うけど、キミタカに関しては(妊娠が故意だとしたら全く違うが)そこまで断罪されるべき人格か?という疑問がわく。ナツが結婚の話されたくないくだりとかも、もちろんデリカシーはないし、ナツのセクシャリティもわからないわけだし嫌な気持ちになるのもわかる、わたしも自分が言われたら嫌、でもだからといって全部シャットアウトしてぶっ殺したくはない、それよりそういうのをやめろ!と言っていきたい。ミソジニーVSミサンドリーの話らしいが、その双方を爆破したい気持ちがある…ここまで書いて思ったけど、これがまだ対話の可能性を信じたいということなのかも。アフトでも出ていたがキャラクターたちが全員互いに遠い。

でもわかんないな、これは自分語りになってしまうし万人に当てはまるケースだとは全然思わないんだけど、わたしは有害な男性性が皆無な男性である配偶者と出会ったことで男性への怒りや嫌悪がかなり薄まったという自覚があるので、5年前くらいの自分だったらそっちにも共感してたかもしれない。SNSを見ているとミソジニーへのカウンターとしてのミサンドリーの声は大きくなっていると感じるし…というかこれ男性の観客はどう思ってるんだろう。しんどくないのかな。でもフェミニズムと宗教どっちに軸を置いた感想かが観た人によって違うらしいので(わたしは明確に前者)見えない人には見えないのかも。

冷徹な時代のまなざし

あやめ十八番「六英花 朽葉」昭和モダン版感想。あまりにもおもしろかったし、べしゃべしゃに泣いた。わたしは去年の「空蝉」で初めてあやめを観て、エンタメとしての完成度の高さに度肝を抜かれたのだけど、今年はそれに加えて物語に普遍的な軸があって、なおかつ楽隊による生演奏であることの意味も増していて、本当にものすごいと思った。ネタバレしています。

 

無声映画を説明する活動弁士の物語。主人公である女性弁士・根岸よう子=荒川朽葉の走馬灯という形でその栄枯盛衰を振り返る。よう子の父・正三は女形だったが活動写真に女優が台頭したことで職を失い、母親はそんな彼を見限り兄・実に入れ込んでいた。芸事が好きだが女であることで目指すものを見つけられずにいたよう子は、女性弁士の語りを聞いてその魅力に打たれ、兄と共に弁士を志す。母は関東大震災の混乱の中で愛人と姿を消し、兄妹は浅草へ出て荒川木蘭・朽葉兄妹として売れっ子となる。

2人の職場の映画館・緑風館は、彼女らが憧れた女性弁士・柳静子が館長を務め、見習い中の娘のすず、郡司や萩ら楽士の面々、いまいちうだつの上がらない弁士の高沢、技師の水柿、映画監督の灰汁らが出入りしている。高沢は私娼の躑躅と恋仲で、いつか彼女を身請けすると約束している。この銘酒屋に田舎から耳の聞こえない少女・苗が売られてきて、躑躅が面倒を見ることになる。次作の純粋無垢なヒロインを探していた灰汁は苗を見初め、彼女を身請けして正三に頼み女形の演技を仕込んでもらう(無声映画なので台詞が喋れなくても成立する)こうして苗はスターダムを駆け上がる。

しかしアメリカから輸入されたトーキー映画が台頭し、弁士たちの間では解雇や待遇悪化を受けて攻撃的なストを行うものが現れ、映画界は騒然とする。灰汁は小説家・老竹から人気作品を映画化させてやるからトーキーを撮れと言われ、それを受ける。正三は灰汁が見捨てた苗に口話を仕込もうとするが失敗に終わり、彼女は姿を消す。そしていよいよ進退窮まった緑風館でも、静子が全員の解雇を言い渡す。すると木蘭は皆で映写室に立てこもり酒盛りをするというストを始め…。

 

冒頭、金子さん演じる朽葉の口上から舞台が始まり、しばらくの間すべてのキャストに朽葉が声を当てる形で物語が進む。ひとりしか喋っていないのに、役者の生き生きした動きと金子さんのキレのある演じ分けでまったく違和感がないすごさもさることながら(まず金子さんの語りがうますぎる)、このときのわたしたちは彼女の走馬灯という演目で活弁を堪能する客になっている。そして幼いよう子の前で活弁を披露する静子がその次に初めて声を発する。兄妹が浅草に出て時代が昭和に移ると、トーキーになって皆が台詞を喋るようになる。楽士キャストは演技もしながら劇伴や効果音も担っていて、幼少期の兄妹が河原で話すシーンの虫やカエルの声には驚いた(他にも色々ある)今回席が最下手だったので遠くてあんまり見えなかったが、楽士だけを見ていても成立するくらいいろんなことをしている。物語が不穏なほうに進んでいくどこかで、吉田さん演じる萩がピアノをバーンと鳴らして弾きやめたのが鮮烈だった。

とにかく作劇がうますぎると思う。荒川兄妹を中心とした緑風館および弁士界隈の物語と、苗や躑躅を中心とした物語が並行で展開しながら同調して描かれる。例えば弁士見習いのすずと女優の教育を受ける苗の頑張りを並行で見せたり、ストの最中に朽葉が練習する「散りゆく花」の語りと、伊豆の映画館で灰汁の新作を見る苗の回想を重ねたり。そして苗が死に、躑躅が灰汁を殺しに来ることで2本の軸が交わり、緑風館は燃え、関係性は崩壊し、物語は終わりに向かう。

舞台セットは上手と下手に高台があり、下手には弁士のお立ち台、上手の高台下に楽士のブース。舞台後方にはキラキラしたストリングカーテンがかかり時にはスクリーンになる。あと劇場の通路や2階もすごく縦横無尽に使っていて、すずが高沢からダメ出しされるシーンや上映中のストのシーンなどでは、自分が映画館の客になったような気分でちょっとイマーシブ的。今回最前だったから若干見えないところがあったが、引きで見たら照明についてももっと色々思うかも、とにかくバーバル・ノンバーバル共に情報量が多い!

 

この物語の語り手は朽葉だが、上であらすじを書いていても思ったけれど非常に群像劇的で、それぞれにスポットが当たる瞬間がある。同時に、スポットが当たっていない瞬間にも彼らの人生は続いていると感じさせる。例えば苗の人生って、テキストだけで説明するとやや冷蔵庫の女的に(殺されてるわけじゃなく自死だけど)とられてしまいかねないが、作品を観ていると苗が苗の人生を生きていたということがこの上なく伝わってくる。上手の高台で苗が手紙を読むシーン、手紙の中でだけは彼女はよどみなく話すことができて、その姿を見て爆泣きしてしまった。苗が曇りなく笑ってるの、客席からよく見える角度だと、ここの冒頭と映画の劇中で踊るシーンだけな気がするんだけど、中野亜美さんは本当に笑顔が素敵なので胸が締め付けられる。というかこの役すごくないですか?観客が明瞭に聞き取れる形で台詞を発せる瞬間がほぼないのに、彼女の人格や思いが伝わってくる。中野さんはいつか大きな演劇賞をとるとわたしはずっと思っているのですが(別に賞をとるのだけがいいってことではないけど)改めてその確信が強まった。

躑躅の田久保さんもめちゃくちゃによかった…まずハスキーな声が良い。苗が躑躅を身請けしようとするのって今で言うある種のシスターフッドだと感じたんだけど、それは躑躅が生きてきた人生には存在しない価値観だし、躑躅にはそれを受け入れることはできないんだよな。苗がいなくなったと正三から聞いた後彼女を探す躑躅の脳裏には、あのとき苗を拒絶しなければという後悔がよぎらないわけがないだろうし、だからこそすべてを灰汁の責任にして殺すという決断に至ってしまうのかも、というか躑躅って灰汁を殺しに来たあのときが初めての映画館だったのかな…つらいな…。

吉川さん演じる木蘭は自由な子どもみたいに見える瞬間と、朽葉と言い合うシーンなど根本的に何かに縛られていると感じさせる瞬間が両方あり、それが役の深みだと感じてよかった。齋藤さん演じる高沢、三枚目かと見せて弁士の弁舌で女将を言い負かし躑躅を自由にするところかっこよすぎたし、朽葉の夫になる郡司もすごく魅力的(島田さん、まず声が良すぎないか?何を喋っていても聞き入ってしまう)というかキャストがほんとに全員良い!!正三が苗への教育を承諾するときの「芸の道とはやはり、血みどろでなくてはいかん」というセリフがめちゃくちゃかっこよかったな。

 

おもしろさに興奮しながら観ていたクライマックス、朽葉が締めの口上を述べて銀幕の向こうに入っていき、緑風館を取り巻いた面々は皆物語の中に消える。ここで感動的に終わると思った。が、そうはならなかった。劇中の登場人物は冒頭で朽葉が「色もない音もない」と言う通り、全員モノトーンの衣装なんだけど、最後にカラフルな服を着た現代の人々が舞台上に現れ、思い思いにスマホで映像を見たり、ヘッドホンで音楽を聴いたりしている。そして舞台中央に背を向けて置かれたゲーミングチェアに座った若者が、RTAゲーム実況を語りだして幕。

こんな終わり方ってある?本当に天才でしょ。個人的解釈だが、これって現代においてまた「動画を声で説明する」というエンタメが台頭している、弁士の魂は死なないのだというメッセージともいえるし、同時に現代のいつでもどこでも手軽に摂取できる様々なエンタメによって、その場に足を運んで観ないといけない演劇というエンタメが無声映画みたいな道を辿る可能性も示唆しているのでは?と思って、その万物に冷徹な視線に震えた。

 

繰り返すが、この作品ってエンタメの作り手としての熱い情熱と、物語の紡ぎ手としての冷徹な目線を併せ持っていると思う。登場人物は生き生きとして、その青春の日々が魅力的に描かれていると同時に、皆人間くさいエゴイズムにあふれている。手放しに善い聖人は存在しない。そして彼らが時代の潮流という抗えない高波に翻弄される先に、夢のようなハッピーエンドはない。ばらばらになって押し流されながら、それぞれが何かに縋ったり、もう縋ることをやめて波間に消えていったりする。その姿をただ観ている自分が「時代」そのものになったような気がして、それは映画のスクリーンで繰り広げられる物語をただ観る観客とも相似している。

本当にエゴなんだよな…静子とすずと郡司のシーンで台詞でも語られてるけど、それだけじゃなく木蘭が活弁に殉じる道を選ぶのも、正三が苗の女優の道を諦められないのも、朽葉と郡司がぶつかるのも、老竹が無声映画を駆逐したいのも、水柿が弁士を辞めさせたいのも、そもそも灰汁がひとりでも多く救いたいと言うのだって、全員めちゃくちゃエゴイストで、矜持があって、まさに「芸人って食えないよ」というセリフの通り。でも表現者ってその強烈なエゴがあるから魅力的なのかもしれない。そして最後に朽葉は自身の歩んできた人生を力強く肯定する。

 

ストの中で緑風館を閉める閉めないという話は、パンフレットのまえがきにもあった通りコロナ禍を思い出させて、エンタメを享受する側としては「続けてくれること」への感謝を覚えた。あと、前半に灰汁が若手監督仲間と激論するシーン、「どれだけ高尚で、意義あるものを作るか」だという若手監督に対し「映画があって人があるんじゃない、人があるから映画があるんだ」「客を篩にかけるのか?」という灰汁の台詞がすごく好きだった。これはわたしが勝手に意味を付与しているだけなのですが(堀越さんが灰汁を演じていたことによるメタもあるかも)演劇を観ていると難解な表現が芸術性が高いとされ界隈において評価されやすい傾向を感じたり、逆にリアリティをもって高クオリティのエンタメをやっていると観客からは評価されても「演劇を評価する人」からはあんまり高評価を受けない(というかそういう評価の対象にならない)のでは?ともやもやすることがあり、そんな靄を晴らしてくれたような気持ちになった。灰汁、どうしようもなくエゴイストで映画に魅入られているのに、どうしようもなく愛せてとても好きだったな。

 

もう4000字くらい書いてるんだけど、まだ書くことがいくらでもある。というかあのシーンがああいうふうによかった、という話とか、ひとりずつキャラの内面を掘り下げ始めたら永久に書き終わらない気がする。しかしとにかくあと3公演?で公演が終わってしまうのが儚すぎる!本当におすすめです!配信もある!!

https://s.confetti-web.com/detail.php?tid=72677&

 

これは完全にオタクが願望を叫んでいるだけの蛇足なんですけど、堀越さん2.5次元もやってくれないかな…お団子屋さんやめたってパンフで書いてたし…複数の場面を整理して同調させながら並行で描くのと、限られた時間の中で登場人物皆の人間性を見せるのがすごくうまい印象なので、絶対原作ものもおもしろくなると思うんだよな…。

世界の見え方の違い

範宙遊泳「バナナの花は食べられる」感想。おもしろくないわけではないし役者も演出も照明も素敵。ただ感情は動かなかったので、自分の物語ではないなと思った。


過去の上演は未見、台本も未読。前科一犯でアル中の元詐欺師・穴蔵の腐ったバナナは、出会い系アプリでサクラの男と知り合い、百三一桜と名付けた彼を相棒として探偵を始める。バナナは「人を救いたい」と考えていて、その一環として出会い系アプリを通じた売春サービスの黒幕と思われる男・ミツオを探す中で、ミツオの元彼女・レナと知り合う。レナは百三一と付き合い始めたことで仲間に加わる。ある日バナナはミツオを尾行していて攫われるが、実はミツオは首を切られて死にかけたことで発声とすべての記憶を失い、同時に人の亡くなる日が頭の上に見えるようになっていた(喋れないので、スマホの音声読み上げ機能で話す)バナナの余命が見えるから彼を救いたいというミツオを、バナナはクビちゃんと名付けて仲間に加える。

ところでバナナは断酒会で知り合ったアリサという女性に恋をしていた。姿を消した彼女を探し出し、余命がわずかでないかの確認と告白をしたいと考えたバナナは、レナをアリサのもとに派遣して友人関係を築かせた上で引き合わせてもらうという策をとる。再会は成功するが、告白は成功せず、そしてアリサはクビちゃんと過去に因縁があったらしく彼を見るなり半狂乱になり、施設に収容されてしまう。

アリサを失ったバナナは酒量が増え、クビちゃんが見た日付通りに亡くなる。バナナの死後、クビちゃんが記憶を取り戻していたこと、アリサの頭の上に余命を見ていたことが発覚し、3人はバラバラになる。しかし2人が出会ったアプリ内で予約送信されたバナナからのメッセージを見て、百三一はアリサを助けに向かい、別れたレナと再会する。アリサを守る2人の後ろに鎌を持った死神が迫るが、飛び出したクビちゃんと通りすがりの見知らぬ男(バナナ役の楚本さんが演じている)が死神ともみ合う。見知らぬ男が「確保!」と叫び幕。

ディグディグ〜もそうだった気がするが、ラストで力技だろうと絶対にハッピーエンドにするという強い意志を感じる。これは好みが分かれるところだと思う(個人的に今作の終わり方は好きではない)そういえば昨日かまどキッチンを観ていたんだけど、固有名詞を多量に含む膨大なセリフや、シームレスに挟まれるモノローグが似ている気がして、範宙からの影響があるのかなと思ったりした(知らんけど)

 

死後のバナナが落ちてきた青空(柄の布)にくるまってマリア像みたいになって百三一と話すシーンや、どこだか忘れたけど光に照らされた横断歩道をバナナと百三一が渡るシーンなど、本能的に画作りがかっこいい!と思う瞬間がたくさんあった。一方でストーリーについては優しいし全方位に配慮しようとしているのもわかるけど、この物語において恋愛と性愛が大きな位置を占めている(とわたしは思った)からか、作者と自分の世界の見え方の違いは感じた。それはたとえば、レナがなぜ百三一を好ましく思ったのかが全く分からなかったこと、バナナのアリサへのアプローチはクビちゃんのことがあったから最悪だったという描き方にされているけど、それがなくても最悪だと思うこと(自分に告白するために女を送り込んで友達にさせてくる男、かなり無理じゃないですか?好意だからといって許されることではない)、そもそもバナナはアリサにちゃんと向き合いたいなら自分が彼女の後輩でないと言うべきであること(アリサが最初からバナナに警戒心を持っていないのは後輩だと思っているからなので)、付き合いだした後のまゆみとマサくんという呼称の非対称性、アリサとレナが仲良くなる過程や関係を再構築する過程が全く描かれないこと、アリサが男性を嫌悪しているのに(ここのDVのくだり、アリサが被害者なのか加害者なのかわからなかったが)性欲から身体を売るという台詞、などなど…というか、恋愛を描く上でそこに性愛をどの程度含ませるかが合わなかったのかも(別に性愛イコール悪だと思っているわけではないけど、恋愛と性愛をひとくくりの切り離し得ないものとされると、ちょっと違和感がある)

あと、今のは性差に紐つくであろう違いだけど、他の点だと前半の大学中退の話をするくだりなどに文化系界隈のモラトリアム感というか、経済的に余裕のある家に生まれて高い教育を受けるも、そこに違和感を覚えてドロップアウトし、そんな自分を自嘲的に語るというよくあるやつを感じてちょっと合わなかった。別に現実にそういう生きづらさを感じている個々の人々に対して「あなたのつらさはつらさじゃないです」と言う気はさらさらないんだけど、創作で何かにフォーカスを当てるというのは、それ以外の何かを捨象することだと思うので…こういうことを書いている時点で、この作品は自分の物語ではないんだと思う。ディグディグ〜であまり気にならなかったのは恋愛という要素が薄かったからなのかな。あと、細かく説明できないが作中ですごくコロナ禍を踏まえたエモだと感じた瞬間があり、これは10年後にもまだ共有できる手触りだろうか?と思った(その時代に紐付く表現っていくらもあるのでそれが良くないとは思わないんだけど)

 

バナナと百三一の関係は甘美だし、演じる役者ふたりがとても魅力的なのも相まってエモいが、わたしがいちばんもっと知りたいと思ったのはミツオのこと。この物語でフォーカスされるのはバナナと百三一、百三一とレナ、バナナとアリサが中心で、台詞の通り人間関係に優先順位は確かにあって、その中で特にクビちゃんになった後はだれの一番でもないミツオが、結局何を思って最後ああしたのかは細かく語られないし(戯曲にはあるのかもしれないけど舞台上では)彼の生い立ちも、アイデンティティを失った葛藤も、思いがけず取り戻した後の苦しみも何にもわかんなかったけど、必要かと問いかけて必然と言われ、その後に意図せず最悪の必然を生み出してしまって、そうして必然でもなくなって、そこから最後あの光景を生み出すために目の前を走り抜けていったミツオの切実さが、この作品でいちばん印象深かった。細谷さん、回想シーンの何考えてるかわからなさと鼻にかかったような声もよかった。レナの井神さん、登場すぐのホテルのシーンがめちゃくちゃ素敵だったな。入手さん演じるアリサは、ずっと本当にわたしにはよくわからない女性だった。植田さんの役は男としかクレジットされていないんだけど、アリサに迫るシーンの動きが本当に気持ち悪くて怖い。