言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

冷徹な時代のまなざし

あやめ十八番「六英花 朽葉」昭和モダン版感想。あまりにもおもしろかったし、べしゃべしゃに泣いた。わたしは去年の「空蝉」で初めてあやめを観て、エンタメとしての完成度の高さに度肝を抜かれたのだけど、今年はそれに加えて物語に普遍的な軸があって、なおかつ楽隊による生演奏であることの意味も増していて、本当にものすごいと思った。ネタバレしています。

 

無声映画を説明する活動弁士の物語。主人公である女性弁士・根岸よう子=荒川朽葉の走馬灯という形でその栄枯盛衰を振り返る。よう子の父・正三は女形だったが活動写真に女優が台頭したことで職を失い、母親はそんな彼を見限り兄・実に入れ込んでいた。芸事が好きだが女であることで目指すものを見つけられずにいたよう子は、女性弁士の語りを聞いてその魅力に打たれ、兄と共に弁士を志す。母は関東大震災の混乱の中で愛人と姿を消し、兄妹は浅草へ出て荒川木蘭・朽葉兄妹として売れっ子となる。

2人の職場の映画館・緑風館は、彼女らが憧れた女性弁士・柳静子が館長を務め、見習い中の娘のすず、郡司や萩ら楽士の面々、いまいちうだつの上がらない弁士の高沢、技師の水柿、映画監督の灰汁らが出入りしている。高沢は私娼の躑躅と恋仲で、いつか彼女を身請けすると約束している。この銘酒屋に田舎から耳の聞こえない少女・苗が売られてきて、躑躅が面倒を見ることになる。次作の純粋無垢なヒロインを探していた灰汁は苗を見初め、彼女を身請けして正三に頼み女形の演技を仕込んでもらう(無声映画なので台詞が喋れなくても成立する)こうして苗はスターダムを駆け上がる。

しかしアメリカから輸入されたトーキー映画が台頭し、弁士たちの間では解雇や待遇悪化を受けて攻撃的なストを行うものが現れ、映画界は騒然とする。灰汁は小説家・老竹から人気作品を映画化させてやるからトーキーを撮れと言われ、それを受ける。正三は灰汁が見捨てた苗に口話を仕込もうとするが失敗に終わり、彼女は姿を消す。そしていよいよ進退窮まった緑風館でも、静子が全員の解雇を言い渡す。すると木蘭は皆で映写室に立てこもり酒盛りをするというストを始め…。

 

冒頭、金子さん演じる朽葉の口上から舞台が始まり、しばらくの間すべてのキャストに朽葉が声を当てる形で物語が進む。ひとりしか喋っていないのに、役者の生き生きした動きと金子さんのキレのある演じ分けでまったく違和感がないすごさもさることながら(まず金子さんの語りがうますぎる)、このときのわたしたちは彼女の走馬灯という演目で活弁を堪能する客になっている。そして幼いよう子の前で活弁を披露する静子がその次に初めて声を発する。兄妹が浅草に出て時代が昭和に移ると、トーキーになって皆が台詞を喋るようになる。楽士キャストは演技もしながら劇伴や効果音も担っていて、幼少期の兄妹が河原で話すシーンの虫やカエルの声には驚いた(他にも色々ある)今回席が最下手だったので遠くてあんまり見えなかったが、楽士だけを見ていても成立するくらいいろんなことをしている。物語が不穏なほうに進んでいくどこかで、吉田さん演じる萩がピアノをバーンと鳴らして弾きやめたのが鮮烈だった。

とにかく作劇がうますぎると思う。荒川兄妹を中心とした緑風館および弁士界隈の物語と、苗や躑躅を中心とした物語が並行で展開しながら同調して描かれる。例えば弁士見習いのすずと女優の教育を受ける苗の頑張りを並行で見せたり、ストの最中に朽葉が練習する「散りゆく花」の語りと、伊豆の映画館で灰汁の新作を見る苗の回想を重ねたり。そして苗が死に、躑躅が灰汁を殺しに来ることで2本の軸が交わり、緑風館は燃え、関係性は崩壊し、物語は終わりに向かう。

舞台セットは上手と下手に高台があり、下手には弁士のお立ち台、上手の高台下に楽士のブース。舞台後方にはキラキラしたストリングカーテンがかかり時にはスクリーンになる。あと劇場の通路や2階もすごく縦横無尽に使っていて、すずが高沢からダメ出しされるシーンや上映中のストのシーンなどでは、自分が映画館の客になったような気分でちょっとイマーシブ的。今回最前だったから若干見えないところがあったが、引きで見たら照明についてももっと色々思うかも、とにかくバーバル・ノンバーバル共に情報量が多い!

 

この物語の語り手は朽葉だが、上であらすじを書いていても思ったけれど非常に群像劇的で、それぞれにスポットが当たる瞬間がある。同時に、スポットが当たっていない瞬間にも彼らの人生は続いていると感じさせる。例えば苗の人生って、テキストだけで説明するとやや冷蔵庫の女的に(殺されてるわけじゃなく自死だけど)とられてしまいかねないが、作品を観ていると苗が苗の人生を生きていたということがこの上なく伝わってくる。上手の高台で苗が手紙を読むシーン、手紙の中でだけは彼女はよどみなく話すことができて、その姿を見て爆泣きしてしまった。苗が曇りなく笑ってるの、客席からよく見える角度だと、ここの冒頭と映画の劇中で踊るシーンだけな気がするんだけど、中野亜美さんは本当に笑顔が素敵なので胸が締め付けられる。というかこの役すごくないですか?観客が明瞭に聞き取れる形で台詞を発せる瞬間がほぼないのに、彼女の人格や思いが伝わってくる。中野さんはいつか大きな演劇賞をとるとわたしはずっと思っているのですが(別に賞をとるのだけがいいってことではないけど)改めてその確信が強まった。

躑躅の田久保さんもめちゃくちゃによかった…まずハスキーな声が良い。苗が躑躅を身請けしようとするのって今で言うある種のシスターフッドだと感じたんだけど、それは躑躅が生きてきた人生には存在しない価値観だし、躑躅にはそれを受け入れることはできないんだよな。苗がいなくなったと正三から聞いた後彼女を探す躑躅の脳裏には、あのとき苗を拒絶しなければという後悔がよぎらないわけがないだろうし、だからこそすべてを灰汁の責任にして殺すという決断に至ってしまうのかも、というか躑躅って灰汁を殺しに来たあのときが初めての映画館だったのかな…つらいな…。

吉川さん演じる木蘭は自由な子どもみたいに見える瞬間と、朽葉と言い合うシーンなど根本的に何かに縛られていると感じさせる瞬間が両方あり、それが役の深みだと感じてよかった。齋藤さん演じる高沢、三枚目かと見せて弁士の弁舌で女将を言い負かし躑躅を自由にするところかっこよすぎたし、朽葉の夫になる郡司もすごく魅力的(島田さん、まず声が良すぎないか?何を喋っていても聞き入ってしまう)というかキャストがほんとに全員良い!!正三が苗への教育を承諾するときの「芸の道とはやはり、血みどろでなくてはいかん」というセリフがめちゃくちゃかっこよかったな。

 

おもしろさに興奮しながら観ていたクライマックス、朽葉が締めの口上を述べて銀幕の向こうに入っていき、緑風館を取り巻いた面々は皆物語の中に消える。ここで感動的に終わると思った。が、そうはならなかった。劇中の登場人物は冒頭で朽葉が「色もない音もない」と言う通り、全員モノトーンの衣装なんだけど、最後にカラフルな服を着た現代の人々が舞台上に現れ、思い思いにスマホで映像を見たり、ヘッドホンで音楽を聴いたりしている。そして舞台中央に背を向けて置かれたゲーミングチェアに座った若者が、RTAゲーム実況を語りだして幕。

こんな終わり方ってある?本当に天才でしょ。個人的解釈だが、これって現代においてまた「動画を声で説明する」というエンタメが台頭している、弁士の魂は死なないのだというメッセージともいえるし、同時に現代のいつでもどこでも手軽に摂取できる様々なエンタメによって、その場に足を運んで観ないといけない演劇というエンタメが無声映画みたいな道を辿る可能性も示唆しているのでは?と思って、その万物に冷徹な視線に震えた。

 

繰り返すが、この作品ってエンタメの作り手としての熱い情熱と、物語の紡ぎ手としての冷徹な目線を併せ持っていると思う。登場人物は生き生きとして、その青春の日々が魅力的に描かれていると同時に、皆人間くさいエゴイズムにあふれている。手放しに善い聖人は存在しない。そして彼らが時代の潮流という抗えない高波に翻弄される先に、夢のようなハッピーエンドはない。ばらばらになって押し流されながら、それぞれが何かに縋ったり、もう縋ることをやめて波間に消えていったりする。その姿をただ観ている自分が「時代」そのものになったような気がして、それは映画のスクリーンで繰り広げられる物語をただ観る観客とも相似している。

本当にエゴなんだよな…静子とすずと郡司のシーンで台詞でも語られてるけど、それだけじゃなく木蘭が活弁に殉じる道を選ぶのも、正三が苗の女優の道を諦められないのも、朽葉と郡司がぶつかるのも、老竹が無声映画を駆逐したいのも、水柿が弁士を辞めさせたいのも、そもそも灰汁がひとりでも多く救いたいと言うのだって、全員めちゃくちゃエゴイストで、矜持があって、まさに「芸人って食えないよ」というセリフの通り。でも表現者ってその強烈なエゴがあるから魅力的なのかもしれない。そして最後に朽葉は自身の歩んできた人生を力強く肯定する。

 

ストの中で緑風館を閉める閉めないという話は、パンフレットのまえがきにもあった通りコロナ禍を思い出させて、エンタメを享受する側としては「続けてくれること」への感謝を覚えた。あと、前半に灰汁が若手監督仲間と激論するシーン、「どれだけ高尚で、意義あるものを作るか」だという若手監督に対し「映画があって人があるんじゃない、人があるから映画があるんだ」「客を篩にかけるのか?」という灰汁の台詞がすごく好きだった。これはわたしが勝手に意味を付与しているだけなのですが(堀越さんが灰汁を演じていたことによるメタもあるかも)演劇を観ていると難解な表現が芸術性が高いとされ界隈において評価されやすい傾向を感じたり、逆にリアリティをもって高クオリティのエンタメをやっていると観客からは評価されても「演劇を評価する人」からはあんまり高評価を受けない(というかそういう評価の対象にならない)のでは?ともやもやすることがあり、そんな靄を晴らしてくれたような気持ちになった。灰汁、どうしようもなくエゴイストで映画に魅入られているのに、どうしようもなく愛せてとても好きだったな。

 

もう4000字くらい書いてるんだけど、まだ書くことがいくらでもある。というかあのシーンがああいうふうによかった、という話とか、ひとりずつキャラの内面を掘り下げ始めたら永久に書き終わらない気がする。しかしとにかくあと3公演?で公演が終わってしまうのが儚すぎる!本当におすすめです!配信もある!!

https://s.confetti-web.com/detail.php?tid=72677&

 

これは完全にオタクが願望を叫んでいるだけの蛇足なんですけど、堀越さん2.5次元もやってくれないかな…お団子屋さんやめたってパンフで書いてたし…複数の場面を整理して同調させながら並行で描くのと、限られた時間の中で登場人物皆の人間性を見せるのがすごくうまい印象なので、絶対原作ものもおもしろくなると思うんだよな…。