言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

壱劇屋東京支部「五彩の神楽」に見る、作品世界の拡張と劇団による創作の可能性

世田谷パブリックシアター公開講座舞台芸術のクリティック2022-23」の課題で書いた劇評です。

 

2022年12月27日、劇団壱劇屋東京支部5ヶ月連続公演「五彩の神楽」が幕を閉じた。8月より池袋BIG TREE THEATERにて上演された本企画は、妹を守るため戦場に身を投じる姉の戦いを描く「憫笑姫」、弱きを助け強きをくじく女義賊の武勇伝「賊義賊」、盲目の男と口のきけない少女の悲恋「心踏音」、武器に触れることでその記憶を読み取る男の謎めいた物語「戰御史」と続き、最終作「荒人神」によってその完成を見た。


壱劇屋は大阪にルーツを持ち、2019年以降に一部メンバーが東京進出して以降は、ダンスやマイムを取り入れた演劇やイマーシブシアターを行う大阪班と、殺陣をメインとしたワードレス舞台を中心に行う東京支部で、それぞれ独立した活動をしているという。今回の「五彩の神楽」は、大阪時代の2017年に初演したワードレス舞台をアップデートして再演という形だ。前提として壱劇屋のワードレス舞台には一切の台詞がなく、鬨の声やリアクションなどの発声は行うものの、物語はほぼ殺陣とマイムで表現される。台本は販売されているが、それもかなり抽象的だ。そのため観客による解釈の自由度が極めて高い作品である。

「荒人神」の中心人物は、腕の立つ便利屋の“荒”(竹村晋太朗)、彼とバディを組むサイドキック的ポジションの青年“元”(大津夕陽)、2人が出会う謎めいた絵師の少女“白”(北川愛乃)の3名だ。治安が乱れ、暴力や略奪が常態化した世界で、元は自身も不遇な家庭に育ちながら人間への希望を捨てていない。自らの危険を顧みず人を助け、また強くなるため一心不乱に剣の稽古に励む。荒は容赦のない男だが、元には笑顔を見せ、彼の前でだけは人を殺さない。暴漢に襲われているところを助けられ2人と出会った白は荒をモデルにしたいと懐き、元と微笑ましい小競り合いを繰り広げる。

だが仕事の中で出会う人間の醜さが、徐々に荒の心を蝕む。見初めた少女を我が物とするため、ならず者を雇いその兄を殺させる権力者。富豪からの報奨金に目がくらみ、それまで自分たちに金を届けてくれていた義賊を蹴り殺す民衆。盲目の女を蔑み、村が襲撃された際の囮に使う村人と、その報復として村人を惨殺する女。これら3つのエピソードは、すべて8月から10月に上演された「五彩の神楽」作品である「憫笑姫」「賊義賊」「心踏音」のストーリーのオマージュとなっている。本編においては救いが用意されていた展開をあえて破壊して描くことで、観客は否応なしに「荒人神」の世界における絶望を植え付けられる。思い返せば、11月までの「五彩の神楽」作品において竹村が演じた役どころは、すべて善人で、そして皆主人公たちを助けて不幸な死を遂げていた。この世界にはそういった善人がおらず、そのためにすべての事件が救われない結末を迎えていく。荒自身、権力者に金で雇われ弱者を虐げることに手を貸しながら、元にはそれを隠すという矛盾を抱えている。

舞台上部には序盤から“悪感情の象徴”として黒ずくめの何か(美津乃あわ)が姿を見せており、荒の心が曇るにつれ存在感を増す。そして元という存在によってかろうじて繋ぎ止められていた荒の良心は、元が彼の母親の恋人に傷つけられる姿を見たことで完全に失われる。いわゆる“闇堕ち”である。黒衣装に衣替えした荒は、“悪感情の化身”である異能力使いの霞(上枝恵美加)、靄(丹羽愛美)、霧(岡村茉奈)を率いて民衆の殺戮を始める。


この後はクライマックスまで殺陣が続くのだが、その中で「五彩の神楽」として連続上演を行ってきた意図が明かされる。荒を止めようと立ち向かうも、まるで歯が立たない元と白。追い詰められた白が不思議な力を使うと、舞台後方の垂れ幕に描かれていた過去4作の主人公たちがその場に現れ、元と白に手を貸す。なお8月と11月の主演は劇団員の西分綾香、岡村圭輔、小林嵩平だが、9月主演の小玉百夏、10月主演の吉田青弘は客演で、この2人の今作への出演は完全に伏せられていた。シークレット出演を承諾した2人にも感嘆すると共に、劇団の本企画への力の入れ方を実感させられた。特撮ヒーロー映画において過去シリーズヒーローが大集合して助っ人に現れる場面のようで、文章で説明するとご都合主義にとらえられる懸念があるが、この瞬間客席のボルテージは最高潮に達した。

繰り返すが、壱劇屋の作品は観客の解釈に委ねられている部分が大きい。白が4人を呼び出した不思議な力は具体的にどのようなものなのか?過去4作でも冒頭とクライマックスに姿を見せていた彼女の正体は何か?といった詳細は、各々が想像を巡らせることしかできず明快に回収はされない。そのため、物語に厳密な整合性を求める観客からすると、もどかしさや不完全燃焼を覚える部分がゼロとは言えないだろう。しかしこの作品において、それは大きな瑕疵にはなっていないと判断した。むしろ本作がワードレスでなかったら、台詞で強引にでも何らかの説明をつけないわけにはいかないため、そこで物語の勢いが削がれてしまうことは想像に難くない。ワードレスだからこそ、観客は彼らが絵から現れた理由を一瞬で自分なりに解釈し、そこに生まれた強烈なカタルシスの奔流に、ある意味都合よく身を任せることができるのだ。

前述の通り、竹村が過去作で演じたキャラクターは皆主人公と深い関わりがあったため、過去作を鑑賞済みの観客たちは何の説明もされずとも、彼らと荒が向き合う姿に自然と物語を見出す。特に「憫笑姫」では無骨な中に優しさを隠した騎士団長役を務めた竹村と、彼に剣の手ほどきを受け戦場で成長していく主人公のミラを演じた西分の対峙。そしてミラが荒に直接刃を向けるのではなく、幻想の中でならず者たちを斬り、荒があの日救えなかった兄妹を代わりに救うシーンでは、涙する観客が多く見られた。また対決の場面でミラが荒に対して親しみを示していたため、おそらくミラは荒を騎士団長と同一人物として認識している。つまり「五彩の神楽」とは、同じ人間たちが異なる運命を生きている並行世界の物語なのだと推測される。

演劇を観るとき、物語の整合性や台詞の表現などを追う理性と、視覚的なインパクトや登場人物への共感に引っ張られる感情という2つの軸があるとしたら、本作は極めて後者寄りの観劇体験といえるだろう。そしてその強い感情の動きは本作の公演時間内だけで生み出せるものではなく、それまでの4作品を観劇した時間の積み上げに依拠している部分が非常に大きい。前作を観ずに「荒人神」だけを観たとしても、出演者の面々はスキルフルな殺陣で魅せ、作品として成立していないわけではない。しかしこの作品は「五彩の神楽」最後のピースとして観てこそ、その真価を発揮する。4作目まではそれぞれ独立した作品であった「五彩の神楽」が、「荒人神」によって結び付けられることで作品世界が拡張されているためだ。演劇はその公演時間内で完結する作品が多く、2.5次元作品など一部のシリーズを除けば続き物はあまり見られないが、必ずしも禁じ手ではなく、他の作品を下敷きにすることで観客の舞台上への思い入れをより強められるのだと改めて気づかされた。逆に言えば、「荒人神」単体で鑑賞した観客が置いてきぼり感を覚えるリスクは明らかに存在する。それを承知の上でこの構造を選択し、単体作品では作れない感情の大波を生み出したのは良くも悪くも劇団側の強い意志だといえよう。

 

もう一つ特筆すべき点は、本作を通じて劇団による創作のポジティブな可能性を感じさせていることだ。「五彩の神楽」の並行世界という構造は、劇団という、固定メンバーが公演ごとに様々な役を生きる仕組みと非常に似通っている。そもそも5ヶ月連続上演という常軌を逸した企画自体がプロデュース公演では不可能に近く、劇団でなければ成立しないことは明らかだ。短い稽古期間で高いクオリティの作品を生み出し続けたのは、劇団員を中心とした出演者の阿吽の呼吸と、献身的なスタッフワークのなせる業だろう。

近年、劇団におけるハラスメントの告発が相次ぎ、劇団というものが閉鎖的な人間関係による視野の狭窄と硬直的ヒエラルキーの温床のようにとらえられる面がある。しかし、ステージ上を絶え間なく駆け回り、信じられない運動量の殺陣を行い、身体的に相当なハードワークをこなしながら、それでもカーテンコールでは陽気にふざけあい笑顔を見せる壱劇屋メンバーの姿には、劇団員皆が同じ夢を見ていると思わせる明るさがあった。もちろん一観客の立場で創作環境の詳細はあずかり知らぬため、無責任な発言はできないが、わたしは彼ら彼女らの在り方に、劇団でしか成しえない創作の豊かさを垣間見たのだと断言できる。

さらにもう一段メタな視点で言えば、壱劇屋の作・演出は全て竹村だ。そのため「荒人神」の荒と主人公たちの戦いは、彼が生み出した物語の主人公たちが生みの親を救おうとしているようにもとらえられる。そして悪感情に取り込まれたと思われた荒は、その手を力ずくで引くのではなく傍らに並ぶことを選んだ元と白によって、自ら悪感情を振り払い生還する。これはまるで創作活動の中で苦しみながら、それでも仲間に助けられ、共に進むことを選択し続ける竹村の生き様のようにすら見えてくる。ところがクライマックスで降ろされる5枚目の垂れ幕に描かれているのは、主人公と思っていた荒ではなく元の姿なのだ。これには驚かされると同時に、竹村が持つ次世代への期待や夢も伝わってきた。

「荒人神」のキャッチフレーズは「人は人を救う 人は人を殺す 人は人に絶望し 人は人に希望を託す すべての人は 人の為に立ち上がる」であった。その言葉を借りるならば、私は壱劇屋の作品を通じて劇団と演劇にまだ希望を託すことができると感じた。5ヶ月にわたる長い旅を終えた彼らにまずは拍手を送り、そして次はどんな光を見せてくれるのか期待したい。