言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

何者かになりたい蟻地獄

キ上の空論「朱の人」村田充さんのこと好きそうな気がするな…と思いながら長年見る機会がなかったんだけど、昨年観た「ロボ・ロボ」のナビゲーターの壊れていく姿がめちゃくちゃよくて、また何か観たいと思っていたら、あらすじが面白そうで観に行った。

 

弟・亜月を語り手として、演劇をやっている兄・テツキの人生を描く。全てに要領がよく女性にもモテ、学生時代は弟から見て無敵だったテツキは、高校で好きな女の子・舞花を追いかけて演劇部に入り、先輩に貸された大御所演出家・織田一生のビデオを観て演劇に目覚める。学生演劇では結果を残し、高校を中退して東京で劇団を立ち上げるもなかなか売れない中で、新進気鋭の年下演出家・三上心が織田に評価されていることを知り、嫉妬と劣等感に苛まれるテツキ。パワハラ的なダメ出しをしたことから劇団が分裂し雰囲気が悪い中、公演が3.11で中止になり、地元に残してきた舞花にも別れを告げられ追いつめられる。新たに付き合いだした彼女・芽衣の姉が社長で、節税対策で劇団のパトロンになってくれたため、劇団は一時うまく回り始めるが、集客至上主義の運営方針に切り替わったことで歪みが生じ古参劇団員はついていけないと脱退、さらに初期メンバーの制作スタッフから脚本に対する強いダメ出しを受けたことで脚本が書けなくなる。そのタイミングで地元で実は付き合っていた亜月と舞花が交通事故で死亡し、テツキは本格的に精神がおかしくなり、弟の幻覚や、三上が自分に工作員を送っているというような被害妄想を抱き始める。

 

テツキは学生時代を藤原さん、大人になってからを村田さんが演じていて(パンフだと村田さんは「御テツキ」という表記)東京に出てきたくらいから村田さんが舞台にふらっと出てきて、台詞を代わりに言ったりする。二重写しみたいにしばらくふたりが存在して、パワハラダメ出しのシーンから完全に村田さんに入れ替わる。「東京に行って変わった」みたいな台詞があるけど本当に違う人になってる。この入れ替わりが面白くて、テツキと地元からの友人であるユウヤとテツキのセフレになるリリが飲み会するシーン、勝手にリリを連れてきたユウヤに怒る台詞が途中から村田さんに変わるんだけど、声自体は別人でもトーンや方言(岐阜弁?)が共通しているので、若干の違和感はありつつもシームレスにつながる。あと最初は学生時代のテツキを見慣れているので、そこにゆらりと出てくる村田さんにはひょろ長いシルエットもあってすごい異質さと不穏さ、闇の匂いを感じる。でもその後村田さんがテツキとして生きるのをずっと観ていて、終盤藤原テツキが出てくると、今度はすごく眩しく異質に感じる。目が暗所に慣れるみたいなことが舞台上で起きている。

 

村田さんは初めは白い服を着ていて、3.11のところからは黒い服に変わる。亜月は白っぽい衣装だけど、亡くなった後は上下赤に変わる。「朱の人」はこれなのかと思ったけど、これはテツキの話だからなんでそうなるんだろうと思って、もしかして狂言回しやってる亜月は本当の亜月じゃなくてずっとテツキの頭の中の亜月なのか?あと藤原テツキが劇団立ち上げ時に提案する名前が演劇界の主人公になろうという意を込めた「主の人」で、結局却下されるんだけど、音はそれにかけつつ、朱という色には嘘(真っ赤な嘘って言うように)のイメージがあるのかなと思ったり。

 

終盤、ゴミ屋敷な家の中でのたうち回り、弟に語りかけるテツキは、妄想の中でかつての無敵だった自分と向き合い、演劇をやめると決める。ここ、撤収だー!って藤原テツキが叫ぶとキャストが全員出てきて音楽に合わせて踊りながらセットをはけていくんだけど、その合間に藤原テツキが劇団メンバーとかユウヤとリリとか芽衣と楽しそうにしてるシーンが走馬灯みたいに入って、見えなかっただけで藤原テツキはずっといたんだなと思う。その後テツキはおそらく精神科にも通院して服薬し、やや快方に向かっていたっぽいのだが、三上と初対面し、彼女が別に熱心に演劇をやりたかったわけでも織田一生が好きなわけでもないということを聞かされ、演劇をやめるのをやめる。芽衣とも別れひとりパソコンに向かうテツキの横にゴミ袋が落ちてきて幕。途中亜月と舞花が亡くなったときにも同様にゴミ袋が落ちてきたことを鑑みると、テツキの死を暗示してるのかなと思った。

 

ストーリーの流れだけでいうと極端な目新しさがあるわけではない(亜月と舞花が亡くなるところは演出も含め驚いたが)あとめちゃくちゃ身も蓋もないことを言うなら、全部テツキ自身が招いたことだしメンタル弱いなと思う部分はある。ただクリエイターの一定数にそういう危うさがあることは経験上わかるのと、亜月が「大した話ではない」と何度も言うのもその予防線なんだと思う。何よりずっと演劇をやってきた人が作る劇団の話って各所にリアリティがすごくて引き込まれるし、観客としていろんなことを考えてしまうんだよな。

 

特に心に残ったところがいくつかあって、まず打ち上げで古参メンバーと新規メンバーが揉めるシーンの、「10年演技だけやってきたんですか?それでいいと思ってるんですか?」「私たちが好きで自撮りして、睡眠時間削ってリプ返してると思います?」みたいなセリフ。ちょっと脱線しますが、最近とある40代の俳優のファンになったんだけど、その人が以前インタビューで自分のファンに向けたメッセージを求められたとき(一緒に取材受けてた共演の子が元アイドルだったからこういう質問になったんだと思う)「自分のファン」という意識がなかったみたいですごく戸惑ってて、作品のために動くという意識なので…って言ってたのがすごく印象的だった。その人は元々劇団所属なんだけど(今は解散してる)多分今みたいにSNSが普及するより前の俳優って、そういう作品もしくは劇団の一部としての意識の方が強かったんじゃないかと思う。でも万人が発信できるようになったからなのか、みんなが誰かを推したい時代になったからなのか、これは鶏と卵だとも思うけど、一定以下の年代の俳優には「自分のファン」という意識があると思うし、わりと積極的にSNSで発信してくれる。それは自分で自分をブランディングできる良い面もある一方、本来舞台の上で表現するのが仕事だから、それ以外が加熱しすぎるのも本質的には違うんだろうなという気持ちもあってとても難しい。人を推している身ではあるが、発信が苦痛になってほしくはない…。

 

あと制作スタッフのチカがテツキに、脚本中の震災の描き方について怒るシーン。「死をパッケージ化されて利用されたくない」という趣旨の台詞が刺さる。史実や事件を題材にした作品を観るとき、これを頭のどこかでいつも懸念している。かといって題材にとること自体が悪いとは思わないし、描き方の真摯さと必然性だと思うんだけど、そこの尺度が人によって異なるから難しい。ただチカにああ言われたテツキが書けなくなるくらいのダメージを受けたのは、自分でもそこに必然性がないという後ろめたさを感じていたからなんだろうな。

 

音楽が舞台後方でギターなどの生演奏で、思いきり歪ませた爆音ノイズが刺さる。舞台中央に吊るされている蛍光灯が明滅することで、わかりやすく視覚聴覚から不穏さを届けてくる。シーンごとの大道具は置きっぱなしで、使うものを前に出してくる形だから舞台上はずっと雑然としているが、だから最後全部取り払われて椅子ふたつだけになって、藤原テツキと村田テツキが向き合って演劇をやめる決断をするシーンの鮮やかな落差が際立つ。

ひとつ印象的な嫌さだったのが、事故に遭った亜月と舞花が下手の階段セットに、死を感じさせる手足の折れ曲がったポーズで倒れ込んでいて、葬式で実家に帰ったテツキが直接その姿に向けて手を合わせるところ。

 

出演者が結構多くてキャリアもまちまちという印象だったけど、要所のキャラはみんな良かった。まず村田テツキの壊れる過程のやるせなくなるギリギリさと虚勢、および壊れた後のキマリ方がめちゃくちゃすごい。針に糸を通すような見せ方のコントロール力だと思う。藤原テツキの根拠のない無敵感もいいし、亜月役の久下さんは下手すると退屈になってしまいそうな狂言回しを、どことなく客に信頼させきらない一抹の緊張感をもって演じてた。女性陣は齋藤明里さんの芽衣がすごくいい。芽衣って最初ちょっとおバカそうに見えるんだけど、実際はすごく賢くて愛が深い女性でわたしは好きだ。あと劇団員のマヤを演じる福井夏さん、テツキにパワハラダメ出し受けてるシーンでは弱々しく見えるのに、狂ったテツキと電話するシーンでは目が爛々として舞台上の全部を喰う勢いで良かった。ここで感動方向に行くかと思ったら全然そうはならない突き放し感も含めて好きなシーンだった。

 

富田麻帆さん演じるリリはこの作品の中ではいちばん観客という属性に近い存在だと思うので、その無力感に結構共感してしまいつらかったんですが、これは違う気もしつつ、リリがテツキと三上を会わせたのってわざとなのかなと思った。普通に考えたらテツキがリリに頼んだからなんだろうけど、テツキが演劇をやめるとリリに話して、テツキの作品をいちばん好きなリリがそれを止めるために、いちかばちかのショック療法で会わせたんならどうしよう、と怖くなった。リリは三上と元々知り合いなんだから、そんなに演劇やりたいわけじゃないことも織田一生に興味ないことも知ってておかしくないよなと思って…。だってリリがどれだけ自分の言葉としてテツキの作品を好きだと言っても、テツキには届かないから。

 

あえて台詞を被せたりとか、妄想に支配されたテツキとリリのシーンではテツキの台詞が全部めちゃくちゃで、どこまで書かれてるのか脚本読みたいな。今週「セールスマンの死」と「朱の人」を観たけど、どっちもすごくざっくり言うと、何者かになりたくて理想と現実のギャップに苦しみ狂う人の話だなと思って、これって演劇の普遍的テーマのひとつなのか?というか人生のテーマってことか。結局テツキはどうなれたら幸せだったんだろう。三上に動員で勝てたら?織田に認められたら?なんかそれだけではどれも違う気がする。リリやユウヤからの評価が何も響いていないみたいに、テツキは自分を認めていない人が気になってしまうタイプだから、もしも認められたらまた次の何かを探して、永久に蟻地獄から出られないのでは?テツキが苦しまなくなるためには、根本的には自分を客観的に見て、持っているものやできることの方にも目を向ける必要があるんだと思う。でもその理想と現実のギャップが創作衝動に向かっている部分もあると思うから難しい。劣等感や嫉妬って創作エネルギーにもなる一方で、用法容量を守らないと精神が壊れるんだな。これが無責任な発言である自覚はあります。別に比べているわけではないんだけど、なんか「セールスマンの死」のつらさは自分にも当てはめてしまってどんよりしたのに対し、「朱の人」のつらさは自分がわりとエンタメ的に外から見ていたなと思って、それは自分が創作者じゃないし、創作者に対してうっすらコンプレックスを抱きつつ同時に一線を引いているからなのかなと思ったりした、ガラスケースの中を覗く感覚というか…。