言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

宇宙の果てから手元まで

木ノ下歌舞伎「糸井版 摂州合邦辻」感想。歌舞伎は一度も観たことない。きのかぶは気になってはいたんだけど、結局前回の桜姫〜は都合がつかず、観てみたいなと思っていたら今回は永島敬三さん(好き)が出るというのでチケットを取った。


正直、冒頭1曲目の歌の時点では、こういう感じのやつか…好きじゃないかも…とかなり及び腰になっていた。別にミュージカル俳優ではないので、歌のうまさはキャストによりけりなのだが(というか別に歌のうまさを求める演目ではないのだろうと途中から理解した)1曲目でいきなり現代の薄汚れた街を生きる様々な人々の生活をかなり長尺で歌われ、歌舞伎だと思って来たので困惑した。ただ、観ているうちにこの歌たちがどういう目的なのかなんとなくわかってきたような気がする。

 

あらすじはだいたい原作のままなんだけど、ところどころで曲中に(おそらく原作にはない)回想パートがあり、これは現代語で会話される。出奔した俊徳丸が夕陽を眺めるパートでは、幼少時の亡母や、後妻として来たばかりの玉手との記憶。合邦が玉手を刺すシーンの曲では、幼い頃から高安の後妻として嫁ぐまでの父娘の思い出。この表現が正しいのかわからないが、ある意味二次創作的なこのディテールによって解像度が上がり、現代を生きる我々も歌舞伎の登場人物に感情移入しやすくなる。歌舞伎の、現代人からしたらぶっ飛んだストーリーと馴染みのない形式の中の登場人物たちが、生きた人間として立ち上がってくる感がある。そして、歌の力によってそこに言語化しきれないエモが乗せられる。ストーリーは今の倫理観で言ったらむちゃくちゃな部分やとんでもない展開も多々あるんだけど、それにこだわらせない上演としての強さを感じる。あと、わたし家族ものは普段どちらかというと苦手なんですけど、現代劇じゃないからこそ家族愛を強調されてもアレルギー出なかったのかも。


登場人物について。内田慈さんの玉手がとにかくすごかった。道ならぬ恋に狂った毒婦、回想シーンでのピュアな少女、そして全てが発覚した後の安らかな聖母であり娘、それぞれをシームレスに行き来する。父娘の曲の回想終わり、一瞬で狂った目つきに変貌するのがすごい。鼻にかかったような声もいい。

浅香姫の永井さんも素敵。思うに、これで浅香姫が弱々しい受け身の女だったら、自分がややヘイトを感じて玉手に肩入れしてしまいそうな気がするのだが、めちゃくちゃ強くてかわいくて大好き。俊徳丸を台車に乗せて自分で引っ張ってくシーンよかった。愛する人を自分の力で助けるぞ!という気概がかっこいい。

羽曳野の伊東沙保さん、ほろびてとモダンスイマーズで観たことがあったが、改めてお芝居すご!と思った。俊徳丸を追おうとする玉手と、止めようとする羽曳野が対峙するシーン、息を止めて観ちゃった。あと羽曳野と入平にフラグ立たないかな…とちょっと思いながら見ていた(かわいいので)入平は本当におひいさまに忠実だし良いやつでおもしろくて最高。

永島さんはまた父親に愛されない息子だ…と思ったが、今回は母は存命で愛されているのでまだ良かった。次郎丸はこの物語において悪役だけど、そうなった経緯も描かれるので人間味がある。お母さんとのシーンと、子供の頃の俊徳丸とのシーンよかったな。石田さんのお母さんがまたキュート。というか全員魅力的だった。


柱がいっぱい立ち並んだセット。これは単に立ててあるだけで、劇中でキャストが運んで組み替えることで場の印象が大きく移り変わる(横に倒して重ねて並べ屋敷の間取りを表現したり、数本ずつ集めて俊徳丸が隠れ住むボロ屋になったり)そして最後、自刃した玉手と俊徳丸が言葉を交わすシーン、彼らがその周りを回るそびえ立つ柱は墓標のように見える。周りを取り囲んだ人々は茶色い大きなボールを回していて、合邦が念仏を唱える。これは百万遍のシーンだけど、この前の楽曲ではこれらのボールは宇宙の星々を表現していたので、その鮮やかなカメラの寄り引きに見とれた。

個人の心情を描く歌詞の曲もあるけど、もっと宇宙的視点というか、地上でもがく人間の営みを高いところから俯瞰で見ているような印象の曲もあり(1幕、2幕冒頭など)それによってこの物語が相対化されるというか、ミクロとマクロの併存によって適度に精神的距離が保たれ神の視点で見ていた。しかし終盤、倒れた玉手の後ろで立ち尽くし歌う老母のシーンで、急に強烈に胸に迫るものがあり泣いた。そしてその次のシーン、玉手と老母を残したまま、その前で高安家の人々が月を見ながら談笑している。もちろん彼らにも悪気があるわけではないんだけど、この断絶がすごく強烈で、「悲劇」の枠の中で置いてきぼりにされる存在を強く感じた。あとここで平馬がいないなと思っていたら(飛手さんは明らかに別人の高安の家来を演じている)原作で次郎丸は救われ彼だけが打ち首になるらしく、なるほど…と思ったり。これで終わりなのかと思いきや本当の最後に両親と玉手のシーンがあることで微かに救われたような、結局そうでもないような…。

暗いトーンで赤が入った衣装がとってもかわいい。玉手だけ黒一色で、それがキラキラしてるのも星空みたいだった。あと高安家関連の人々はみんな赤いアイメイクしてて、玉手だけ緑で、玉手の両親はアイメイクしてなかったような気がするけど、意味があるのだろうか。

 

個人的な話になるけど、最近演劇を観始めた当初よりいろんなことを考えて楽しめていないのでは?と悩ましく思うときがある。しかし今回はセットの変化や演出についていろんなことを考えながらも、最終的にはそれを全部忘れて作中に入り込めるといういちばん楽しい形で観れて良かった。木ノ下歌舞伎、演出が公演によって違う人だから次の勧進帳はまた違う感じになるんだろうけど、次も観たい。坂口涼太郎さん出るし…(好き)あとFUKAIPRODUCE羽衣を観たいな。

愛を求める右手

MCR「死んだら流石に愛しく思え」Final Editionとのことで再再演だけど初見。MCRがけっこう好きなのと小野さんが出るので観に行った。


実在の殺人犯・ヘンリーリールーカスを下敷きに大量殺人鬼の男の人生を描く。売春婦の母親から虐待を受けて育った川島は、婚約者との仲を引き裂かれたことが決め手になり母親を殺害、間もなく快楽殺人者の奥田、その妹の飛鳥と出会い、飛鳥と恋に落ち、旅をしながら無軌道な殺人を繰り返すようになる。だが母親の反動でセックスは汚いものだという価値観を持つ川島は、飛鳥とセックスすることはできない。やがて漫画家を志した飛鳥は旅から離れることになり、奇妙な宗教団体に身を寄せる。だが川島が旅から戻ると、団体の人間は通報をちらつかせ、またそれまで殺人を悪と認識していなかった飛鳥は宗教に染まったことで川島を糾弾したため殺害。飛鳥の死体を損壊しようとした奥田も殺害。という顛末が、取調室で川島が刑事に語る形で描かれる。ヘンリーリールーカスを知らなかったのですが(レクター博士のモデルでもあるらしい)劇中のかなりの要素(川島の過去はもちろんのこと、「息をするように人を殺す」「人間は白い紙」ってセリフとか、飛鳥が川島をパパって呼ぶのとか)が事実に由来している様子。

ただそれだけではなく、同時に川島の人生を夢に見ている小野という男が舞台上に存在している。小野は浮気したり借りた金を返さなかったりするクズで、別れ話の中で元カノから「お前は誰にも愛されないし誰のことも愛せない」と言われたことをきっかけに(これは川島が毒母から言われて育ったことと同じ)川島の人生を夢に見るようになり、やがて自分自身も夢の世界に取り込まれてしまう。


正直、この作品を自分がよくわかってないのではないか?という懸念が結構ある。これまで観た櫻井さんの作品が、アンジェリーナ〜、あの部屋が燃えろ、アカデミック・チェインソウだったので、グルーヴ感のあるテンポの速いセリフの軽妙な応酬で観客を否が応でも巻き込みながら、最後は何らかのカタルシスに(そこに含まれる哀愁の味付けは作品によって異なるが)終着するという作風だと認識していたんだけど、今作は全然違った。とにかくヘビーだし、セリフのやり取りもそれに伴って重い。あっそこまで全部セリフで言うんだと思う瞬間もあったし、やや抽象的なセリフを高い熱量で投げ合うので、こっちがややついていけなくなる瞬間もあった。でもじゃあ面白くなかったのかと言われると、そういうわけではないと思う。高カロリーな食事を全部消化しきれてない感じ。

小野の設定も正直最初は全然意図がわからなくて、あえて物語に額縁をはめこまれたような印象があり、窮屈に感じていたのだが、中盤小野と友人の澤が夢の世界に取り込まれ、小野が帰れなくなり、そして最後川島と対峙するシーンで少しだけわかったような気がした。川島を単なるエモい物語、「おはなし」として消費して終わらないための架け橋として小野をおいているのか?小野は劇中では川島の生まれ変わりという案が提示されているが、亡母を川島自身と小野だけが視認できていることをみると確かに何らかの繋がりがあり、最後の2人の会話は決別であり、あの受け答えは川島なりの責任の取り方でもあるのではないかとぐるぐる考えた。

まあわかんないこともたくさんあるんですけど…酒場で川島が小野を見つけた後、次に登場する小野は教団施設にいるけど、この間ってどうなってるんだ、小野はこの世界に実在しているともいないともいえる存在だからどこにでもいられるのか?そのへんのレイヤー感がわからない。あとこれは個人的な好みとして川島と奥田・飛鳥の出会いが見てみたかったな。


飛鳥を教団に残して旅に出た川島と奥田が、爆音でmy sweet darlin'が流れる中、大量のルビーグレープフルーツを潰したり引き裂いたりすることで惨殺を表現している(多分)シーンはすごく好きだった。奥田だけグレープフルーツを食べていたように思うんだけど、オーティス・トゥール(ヘンリーの相棒)が食人趣味だったから?あれは怖がらないといけないシーンなのかもしれないけど美しく感じる。というか奥田洋平さんが良すぎた。凄い。櫻井さん演じる刑事に向かって「お前も悪いよ」って言うシーンの空気の変わり方ゾクゾクした。絶対♡福井夏が初見だったので2回目なんだけど、真逆のベクトルの役って感じなのに(堅物大学教授とサイコパス殺人鬼)両方めちゃくちゃ良くてもっといろんな役が見たい!!パラドックス定数に出てくれませんか???(私欲)奥田に対する晴の「乾いてる、湿ったところがひとつもない」って表現がマジで言い得て妙。川島さんは飛鳥さんと喧嘩するシーンで、ブス!豚!って言われてるのにメロンパン!しか出てこないシーンが、嘘でも悪口が言えないくらい好きなんだなと感じさせてどうしようもなく可愛かった。飛鳥が川島にしたことってもちろん飛鳥には自分の道を選ぶ自由があるんだけど、全部預けさせて突き放す残酷さがないとも言えず…。

無軌道な殺人に加え、あとこのシーンの後ろで飛鳥と、教団で神の生まれ変わりとされていた捨て子の晴が会話を交わしていて、晴は神様を辞めて教団を出ていくと話し、「今までの絶対がもし絶対じゃなかったら?」と飛鳥に聞くんだけど、ここから飛鳥の中で絶対だった川島への愛が失われることを考えると崩壊の前兆であり、その刹那性が美しいのかもしれない。

他にも母親役の伊達さんが全身を絡めとる泥みたいな邪悪さと支配性を見せていてすごいのと、川島の幼馴染で彼を更生させようとする友人役の堀さんが弾ける善性を見せていて素敵だった。成人男性の全力の駄々はそれどころじゃないシーンでも笑ってしまう力がある。堀が川島に普通に生きてほしいというのは確かに堀自身の罪悪感に由来しているのかもしれないけど、それでも関わろうとしている時点で川島のことを思ってもいると思う、行動の目的ってひとつじゃないから。小野さんはとにかく最後の川島さんとのシーンが好きだった。


あとMCRはセクシャルマイノリティを当然の存在として作品内に出してくるところ好きです。ギリギリだなと思うときもあるけど。

不穏でかわいくて優しい世界

くによし組「なんもできない」函波窓さんが好きなので先日観に行った。とてもよかったのでずっと最高って話をしてる。ネタバレしています。


めちゃくちゃよかった(2回言う)。初見の劇団だし、ギリギリまで行けるかわかんなかったから予約もできず当日券で滑り込み、どんな作風なのかも知らなかったんだけど、序盤からおもしろすぎて世界に引き込まれ、最後まで引き込まれたまま終わった。好きすぎる。もう1回観たいが観れないので、観れる人はわたしのかわりに下北沢OFF-OFFシアターに行ってください。21日までです。


今よりもかなり未来。ある雨の日、現場仕事をしている5人の男たちは寒さをしのぐために化石発掘作業員の待機所にやってくる。そこには最初から2人の男がいて、この7人の抱える事情やこの世界の状況が、彼らの会話や展開を通じてだんだんわかってくる。

まず世界観としては、長い戦争によって(おそらく核兵器放射線などで)人間の一部にツノが生え、ツノ有りの人間が差別を受けている。ハエや蚊は変異して巨大化し人間の肉を食いちぎる。また戦争自体が目的化し、同じ国の中の地域間で、徴兵されたツノ有りによる「ファイト」と言い換えた戦いを絶え間なく行い、その前後に派手なパレードやパーティーを行って国民のガス抜きをしている状況。またツノ有りの中でも、2本角や多角は更に1本角から差別を受けている。

 

この作品はかなり突飛な展開があるのに、それをスッと受け入れさせるのがめちゃくちゃ上手い。そこまでの会話でこの人たちは何か差別を受けているんだろうなというのをわからせ、そして登場人物が全員作業服にヘルメットの作業員姿なので、ヘルメットを皆が取ってツノが見えたときのアハ体験感が強い。同様に、化石発掘の作業員は2人登場するけど、実は片方の男(シバハラ)はもう1人の男の記憶で、その場には存在していないということが中盤でわかる。確かに他の誰とも会話してない!そして菊川さん演じるもう1人の男・ベラは、今はもう滅んだガストの配膳用猫ロボット(ベラボット)で、プログラムされているルートしか歩けない。最後、カンナミにプログラムを変更してもらったベラが真ん中の畳座の上に上がったとき、確かにこれまでずっと周りを歩いてるだけだった!とびっくりした。それをここまでまったく意識させない自然な動きなんだよな。畳座に上がっただけでカタルシスを感じさせる菊川さんもすごい。

ベラが外に出られるようになったところで、世界に影響はない。ファイトは続くしツノ有りは差別されているし彼らの大半は明日から戦場に行く。不穏で救われないが、同時にとても優しくかわいい話で、両方に振り切れているから逆にバランスが良い。後半のベラとシバハラの会話で、世界が異常になったら正常なことが異常になる…というようなやりとりがあるんだけど、それでいうとこの話に出てくる人々は皆多かれ少なかれ異常だが魅力的だ。80分観ただけで登場人物のことを全員好きになった…というかたぶん開始10分くらいで好きだった。てっぺいさんが末安さんのモノローグに肘の皮の話で割り込んできた時点でもう好きだった。おもしろすぎ。


上演時間は短めだけど、内容はぎっしり詰め込まれているので、自分が全部消化できているのかわからない。後半、ベラの回想内で今は亡きツノなしの同僚たちが交わす会話と、現在でのスエヤスとナガイの会話が並行して進み、その中で掛け合いが成立したりする。ここ全部受け取りきれてない気がするからもう1回観たいんだよな…スエヤスは誘拐の脅迫電話をかけるバイトをしていて、実はその電話先がナガイだと中盤でわかるんだけど、2人での会話の後にスエヤスが変声機で電話して、毎日電話して怯える娘の声を聞かせてやる、そうすればお前は娘を心配する父親でいられるだろって言うくだりがすごいよかった。ナガイは娘がいるけど、おそらく別に子どもを欲しいとは思っていなくて、夫であり父である自分の立場に押し込められ、生きるために自分を偽っている。そんな彼とスエヤスの間に、社会的立場から切り離された個の人間同士の友情のようなものが一瞬閃いた気がした。


個人的には、この内容の舞台を男性だけでやっているのが特に刺さった理由かも。この世界だとツノ有りは社会構造において地位が低く、女性と付き合ったり結婚することは難しいらしい。さらにツノ有りの中でも複雑な差別構造がある。そんな彼らが、男性同士で自然にケアし合う姿に救われた気がした。ツノ無しとツノ有りの“中間”であるナガイはツノ無し・ツノ有りどちらにもなれない半端な存在だから、偽物のツノをつけて多角だと偽っていて、その頭にスエヤスがそっと触れるシーン。二本角で痛覚がなく脱皮するカンナミをテッペイは異常者扱いするしひどい言葉も吐くけど、カンナミがいなくなったら嫌だと言って彼を助けるため奮闘するシーン。またベラとシバハラも、いかにも男性社会な発掘作業員たちの中で“姫”と呼ばれるシバハラが、同じくロボであることでマイノリティなベラに、刃牙やゴルゴを教材にして舐められない生き方を教えるシーン良くて泣いちゃった。それにしても芝原さんがかわいい。配信か台本売ってほしいな…。


ここからは単なるオタクの感想です。函波窓さん、本当にどの舞台で見てもサイコーに良い、そして出てる舞台が基本的におもしろくて選球眼がすごい(誰目線?)劇団普通で知って、シラノ、第27班、ダルカラ岸田、動物自殺倶楽部、今回と観てきたけど、全部いい。すごい繊細な出力をしていると感じる。でも個人的には本作がいちばん好き!挙動不審機械オタク(カンナミ)と関西弁の元気なヤカラ(ベラとシバハラのかつての同僚)、1作品で両方見れるの福利厚生じゃないですか?(厳密に言うと一瞬カンナミの皮をかぶったベラも演じるので3役ある)ありがとうございます。ちなみに同僚は関西に引っ越すって言ってたけど、カンナミの出身は関西だから、ワンチャン戦争で死んでなくてその子孫がカンナミだったりする?妄想しすぎてる?とにかく果てとチークも楽しみ。

「舞台のおもしろさ」という言葉の幅

「Clubキャッテリア」感想。友達が福澤さんを好きで、自分がうっすら廣野くんを好きなので観に行った。色々書いてるけど、少なくとも褒めてはいません。ネタバレしています。


キャラクターたちは猫モチーフだけど、猫なのか人間なのか世界観に対する詳しい言及はなかったと思う。歓楽街カブキマチで野良として暮らしていたクロとミケは、ひょんなことからクラブ「キャッテリア」オーナーのラグドールに拾われ、“白服”=ホストとして働き、ホストの祭典“ホワイトナイト”でNo.1を目指すことになる。店には同僚のホストや、ライバル店「ドーシャ」のホストたちがいて、それぞれとぶつかったり親しんだりしながら切磋琢磨する2人。しかしクロが白服になった理由である母親の死には、ミケが飛び出してきた生家が関係しているということがわかり…。

明かされる背景は、クロは元々キャッテリアができる前にその場所にあったクラブのママの息子で、しかし悪徳企業に店を騙し取られて母親は病死。キャッテリアを買い戻すという目標のために金を貯めている。ミケはクロには孤児だと話していたけど、実はクロの母の店を奪った企業グループの坊ちゃん。良心の呵責から野良になったクロに金を渡しに来て彼と友達になったことで、家を飛び出して自分も野良をやっていた。ラグドールとドーシャのオーナー・ラガマフィンは一見犬猿の仲のように見えるが、実は古くからのライバルかつ良い友人で、クロの亡くなった母親に恩がある。そのためラグドールは悪徳企業の店を潰してそこにキャッテリアを作ったし、クロに目をかけている。クロは母の死後、嘘をつこうとすると発作が起きるという呪い(実際には呪いではなく自己暗示的なものと思われる)にかかっていて、彼のストレートすぎる物言いが周りに波風を立てるが、人を喜ばせるために嘘をつくホストという職を通じて、やがてクロ自身も変化していく。そしてミケはドーシャにスカウトされ、クロはキャッテリアに残り、ホワイトナイトで対決することになる。


物語としては、別に面白くもつまらなくもないという感想。ストーリーがひどく破綻しているわけではないし、クロの物語を通じて描かれる「本当のことを言うだけが正しさではない」というメッセージもなんとなくわかるけど、テンポが悪いし盛り上がりに欠ける。サイドのキャラそれぞれのエピソードが一応ある割に、全部セリフでサッと語られるだけなのでとってつけた感というか解像度が低く、登場人物に愛着がわかないし感情移入しづらい。物語の展開的にホストという職業の現実的な闇の面は描かれず、嘘をついても応援してくれる人を笑顔にしたい、お客さんが笑顔になってくれるのが嬉しいから夢を見せる!みたいな綺麗事だけで終わるのもどうなの…と思ったが、ここのリアリティラインを下げるために猫設定にしているのかな。あと多分若手俳優という仕事と重ねたい意図もありそう。

暗転が多いのと、場転の演出もなんでそうした?みたいなところがいくつかあった。たとえばミケとクロふたりのシーンで雨にするためにその前に雷を入れてるんだけど、そこでラグドールが突然大声で叫ぶのが唐突で何?と思ったり、全体的に演出が雑だと思った。あとこれはステラボールという箱の事情もあるかもしれないが、音量バランスの悪さもやや感じた(突然大きな効果音が鳴る)ヒプステみたいな楽曲主体の作品なら音デカくてもいいけど、無音で喋ってる時間も多い作品だから…。全体的に、別に怒りを感じるような虚無ではないが凪…という気持ちで見ていた。脚本がかが屋なんだけど、舞台の脚本やったことあるのかな…場転多すぎるのとかはドラマっぽいのかも。


劇中で歌とダンスが数曲あり、ラストのホワイトナイトのシーンがライブパートで、そこでもう一度まとめて披露される構成。シャンパンコールのシーンが本編中とライブパートで2回あり、その間キャストが客席に降りてかなり丁寧にファンサして回る。公式ペンライトがシャンパングラスをモチーフにしていて、これでキャストとエア乾杯ができる。ホストクラブという設定の中で、観客は演者からファンサをもらうことで擬似的にクラブの客になる。


この作品はいわゆるファンサ舞台だと思うが、別に客降りがなかったとしても成り立たないということはないと思う。歌もダンスもあるし、物語も最低限は成立してる。でも客降りの時間がかなり長く取られていて、そしておそらくこれがあるかないかで観客の満足度が大きく変わるんだと思う。確かに演者が自分の真横に来るのは珍しい体験だしアトラクション的感覚がある。しかし原作モノの2.5と違ってキャラに対する思い入れは特にないので、どうしても中の人としてしか見られず、シンプルに「みんな顔がいいな…」と思いながら見送った。原作モノの客降りはあのキャラが目の前に!!という興奮で体温が上がるけど、そういう感覚とは違う。キャストに自分の推してる俳優がいたら感じ方変わるかな?とも考えてみたけど、やっぱり熱狂はできない気がするな…たぶんこれはわたしが、俳優とは役としてステージに立ち物語の中で良い演技やパフォーマンスを見せる存在だと思っていて、公演中に俳優自身からアイドル的ファンサをもらうというのがあまりわからないのかも。イベントという形で、生身の本人として出演しているならまだわかるかもしれないけど。そしてキャラにファンサをもらった!と喜ぶには、この作品ではキャラに対する思い入れが生まれなすぎた、ということだと思う。


ここからは特に主観の話。わたしは荒牧さんが2.5俳優が下に見られる現状を変えたいというような発言をしているのを見かけていて、今回の企画が発表されたとき、演劇として作品単体で作り込まれたものを作りたいのかなと勝手に思い込んでいたのだが、別にそうではないということがわかった。よく考えたら荒牧さん自身もそういう方向性のオリジナルはほぼ出てないし、違うんだな。そして荒牧さんが周辺の通路から数席目までの客にひとりひとり「見てるよ!」みたいなアイコンタクトを送りながら移動していくのを見ながら、もしかしたらこの人はビジネスとかじゃなく、とにかく客を瞬間的に喜ばせるエンタメ舞台というものを心の底からやりたい、やるべきと思っているのかもしれないなと感じた(主観なので実際は知りません)客降りしてファンサすることで観客の満足度が上がるならやればいい、日替わりとかアドリブとかの客を喜ばせる仕掛けも同様、とにかくお客さんを笑顔にしたい!ということなのでは。観終わった後に深く考えさせるとか、演出的な仕掛けを散りばめて考察させるとか、観客の世界の見方を変えるとかではなく、その2時間でどれだけ何も考えずに楽しめるか、に特化した舞台。その享楽性ってホストクラブにも似てますね。そういうメタな作品なのか?


予防線みたいになるけど、エンタメ特化の舞台がそうでない舞台より作品として劣っているのかと言われたら、必ずしもそうとは言えないと思う。焼肉とプリンどっちがおいしい?というような話で、そもそも趣旨が違うものを比べようがない。でも演劇かと言われるとよくわからない。2.5は元々黎明期にはコスプレだなんだと言われてきたところを、役者や関係者の努力によって演劇としての作品性も高めてきている現状があると感じるが、この作品単体で見ると結局役者のアイドル的人気に依存したショーコンテンツだな…と思われても仕方ない内容だと思うので、個人的には2.5のファン層は皆こういう作品を求めていると捉えられたらちょっと心外というか、思想の違いを感じる(そもそもこの作品は2.5ではないんですけど、出演者はいわゆる2.5次元俳優なので、界隈としての見られ方の話)あと、演出家が「俳優の演技が悪くても成立してしまう芝居が好きではない」って書いてたけど、それならファンサパート入れない方がいいんじゃないですか…とは思った。


セットがキャットタワーモチーフなのはかわいいし、ヒエラルキーの可視化の面でも高低差が大きいのは良いと思ったけど、飛び上がったり飛び降りたりする動きが多いので、演者の足腰は若干心配になる。テーマソングがバーニラバニラ的に頭に残る。演者はみんな歌えるし踊れるし演技も壊滅的な人はいないので、売れる人たちのなんでもできる器用さみたいなものはかなり伝わってきた。あと通路に近い席だったんだけど、役者によってファンサ慣れの差を感じた。荒牧さんがすごいのは置いといて、立花さんや笹森さんもわりと細かく見ている印象だったが、ファンサのある舞台に出演した経験の有無が影響しているのかな。個人的には立花さんの演技の感じがかなり好きで、普通のストプレ出てほしいなと思った。ケイヤク観に行こうかな…(取れるのかは知らない)

あなたとわたしはちがう

露と枕「わたつうみ」以前観た公演が色々言いながらもおもしろかったのと、あらすじに興味を惹かれて観に行った。ところどころネタバレしています。


文明を否定し自然に還ることを是とする新興宗教「磐籬の郷」のコミューンで生まれ、文明を知らない人間の在るべき姿「磐籬の友」として神の代弁者とされていた7人の子どもたち。コミューンでは食糧の不足から、罪を犯した人間を処刑し弔いと称して食べることもあった。それが発覚してコミューンが崩壊し、療養施設に引き取られた彼らと、その社会復帰をサポートする職員5人による1年間の物語。

 

とてもおもしろかった。仕事で冒頭間に合わなかったのが本当にくやしいのですが、取り急ぎ台本を読んでやや補完。まず脚本がおもしろい。この話は宗教2世の物語でもあるが、現実に存在する宗教2世の問題をルポルタージュ的に扱う話というわけではなく、宗教を切り口にもっと普遍的な自他境界やアイデンティティ、存在意義というテーマについて描いているという印象をうけた。子どもたちは郷で人々の懺悔を聞き許すことを求められて育ち、寛容であるべきという価値観を内面化している。また、特に年長で教祖の息子である〇一(子どもたちは両親の生まれた区域から番号の名前をつけられている)は、子どもたちがひとまとまりとなって同じ考えを持つことを求め、異なる考えを持った三五に苛立ちを見せる。施設に来たばかりの頃の彼らは自分とそれ以外がどこか曖昧だ。全員が「わたし」という一人称を使うところからもそれを感じる。

でも人間って、どれだけ同じであろうとしてもひとりひとりが絶対に違う体験をして違うことを考えているから、同じになることなんてできない。たとえば子どもたちのひとり一四は、皆で脱走した後自主的に施設に帰ってきて、文明にいたいと話す。彼が語る、郷にいた車好きのシェフの話は彼だけの体験と思い出で、そしてその人をおそらく失い食べたことが一四の心に刺さり続けている。施設で食事を作っている宇都宮に一四がシェフの話をするシーンで泣きそうになる。他の子どもたちもそれぞれの個性と考えと傷があり、施設での日々の中で違いが顕在化して、すれ違いや衝突が生まれていく。そして〇一自身も、同じであろうとすること自体が大きな苦しみになっていたことがやがてわかる。これは主観の感想ですが、人間はひとりひとり違うから、他者の全てを許すなんていうことは絶対に不可能で、許せないことがあるという認識こそが、自立した人間として自他を尊重しながら生きるために必要なのではないか。また同時に違う存在だからこそ自分の中の論理で他者を決めつけてはならず、向き合うことで違いを感じるコミュニケーションが重要だというのが、横川が三五に七三と話すよう言うシーンで伝わってきた。7人は施設での1年で、身体を切り離される痛みを味わいながらもひとりひとりになっていく。施設で初めは揃いの水色の服を着ていた子どもたちが、だんだんバラバラな色の上着を着るようになり、そして施設を出ていくシーンとカーテンコールでは(出ていくシーンが描かれない子も)それぞれ個性のある違った服装になっているのがよかったな。

 

近しいテーマを、設定を現実に寄せもっと淡々としたストーリーで描く形もありえそうだなと思うんだけど、観客の興味を惹くエンタメ性(と言ってしまうと即物的に聞こえるが、ミステリー要素とか不穏さ気味悪さとか作り込まれた設定とか、何が起きるの?続きが気になる!というパワー)とその裏を貫くテーマ性のバランス感覚がすごいと感じた。また、それによって現実の問題を消費しているとも感じさせない描き方なのも良い。職員のひとりである横川は自身も他の宗教2世ということが途中でわかり、当事者でもある彼女の存在によって単純な二項対立化が避けられていると感じる。

あと過去作の「帰忘」でも思ったんだけど、作演の井上瑠菜さん、会話のやりとりの中で少しずつ過不足なく必要情報を伝えながら、同時に人物の人となりをにじませて愛着もわかせていくのがとてもうまいと思う。12人それぞれが生きている。


内容の話。パンフによると七三は文明の男と郷の女の間に生まれた子で、それを信者に圧力をかけられた三五が許さなかったことから村は処刑と食人に進んでいったらしい。つまり三五が責任を感じている最初の死は七三の母親ってことですよね。劇中でも少し触れられているけど、七三だけは里にいたときから文明を知っていた?そのダブルスタンダードが、あの無邪気さの中に時折刃を閃かせるようなキャラクターにつながっているのかな。自分に縋る〇一に巫の面影を見るのもそう。神ではないと知りながら神として扱われてきた七三にとって、三五だけが自分を神ではなく人格を持つ生きた人間として見てくれて、自分が悪いことをしたら他の人と違って許さなくて、だから三五がいちばん大切だよと言うのかな。海に還ると言う七三とそれを止める三五のシーン、すべてのよりどころを失って世界に放り出されたどうしようもないつらさと、ふたりの感情の交歓の鋭いきらめきがあって見とれた。ここにロマンスを感じて消費してしまうのはあまり良い観客ではないのかもしれないという自覚はありつつ、とても美しいシーンだった。


演者もみんな素敵。個人的に特に佇まいが好きだったのは精神科医役の横手慎太郎さん。良い意味でゆるさや余白に色気があって魅力的。過去公演で知った越前屋さんもよかったな…。水色を基調とした海を感じさせる抽象的なセットで、水面のような色味が綺麗だった。あと台本にスピンオフ(今回だと巫の手記)が入ってるのと、パンフに詳細な設定や劇作メモが載ってるのすごくいいですね。

悲劇のフォーマットに回収されない人間性

「ブレイキング・ザ・コード」感想。稲葉賀恵さんの演出に興味があるので観た。

観ながら感情をはちゃめちゃに揺さぶられるというよりは、観終わってずーんと胸の奥が重くなる作品に感じ、でもとても面白かった。ネタバレしています。


第二次世界大戦中にナチスの暗号エニグマ解読で大きな成果をあげ、戦後はコンピューターの開発にも貢献したが、同性愛者であることで当時の法律により罪に問われ、科学的去勢としてのホルモン投与を強制されて自死したイギリスの科学者アラン・チューリングの人生を描く物語。同性愛が露見し自死するに至る晩年、学生時代、戦時中の3つの時間軸を行き来しながらストーリーが進む。タイトルは暗号解読でもあり、掟(法や暗黙のルール)を破るということでもあるのだと思う。


全員良いんだけど、まず亀田佳明さんがとにかくすごい。チューリングというキャラクターってこの話では全然聖人ではなくて、彼の社会性の欠如、思いやりのなさ、奇矯さ、エゴなども表現しきっているから、観ている自分は絶妙にチューリングとの心的距離を保ったままでいられて、それがこの物語においてはとても効果的だったと思う。何というか、主人公が一点の曇りもなく可哀想!になったら違うような気がするんですよね。もちろん同性愛が違法という当時のイギリスの法は非常に差別的であり、現在の価値観で許されることではないというのは前提として、変人だけどピュアな心を持った天才科学者の悲劇という物語に回収されないことがわたしは意義深く感じた。マイノリティは常に人格者なわけではなく、またそうである必要もない。それとは無関係に万人の人権や自由は尊重されなくてはならない。それにしても吃音や爪噛み癖のある偏屈な男の演技がうますぎたな。一人喋りの難解な長台詞が数回あり、そこでさらにもう1段階物語に惹き込まれるのがものすごい。


水田さんのロンも良かった。多分過去に何回か見たことあるんだけど、全部育ちの良さそうな役をやっていたのでそういう印象が強かったんですが、教養がなくやや怠惰で善人でもないが美しく若い男、というのがハマっていた。言い方良くないけど、チューリングとロンって互いに相手のことを無意識に下に見ている部分があると思う。

パットは同性愛者であるチューリングを愛する同僚女性という役で(史実でも一旦婚約して解消しているらしい)、気持ちを告げるシーンが加害にならない絶妙なラインと感じ、こちらがスッと共感できた。異性愛規範を押し付けることは加害的だと思うので、そうはなっていなくて良かった。しかし逆に、既婚者になったパットと再会した後のチューリングの「僕も君と結婚するべきだった」には結構引いたんだけど、みんなあれどう捉えてるんだろう…あれを本人に言うところにチューリングのエゴイズムを感じたんだよな…(あとよく男性は名前をつけて保存…っていわれる恋愛観も感じた)

個人的にいちばん突き刺さったのは、パットがチューリングに元上司のノックスも同性愛者だったと言うシーン。思わず息を呑んでしまった。その前の、戦時中にブレッチリーパークでノックスがチューリングに行動を慎むようにたしなめるシーン、あの時点では結局日和るノックスへの落胆が勝っていたけど(これは主観の話だが、先日自分の上司とまさにこういう内容の言い合いになったので無意識にチューリングに肩入れしていたかも)、ノックス自身も同じ苦しみを抱えていたとわかると全然受ける印象が違ってくる。もちろんマイノリティ同士なら何を言ってもいいということではないが、実感として。ノックス役の加藤敬二さんとってもよかったなと思ったら元劇団四季で歌って踊れる方なのか…観てみたい…。


上手下手の袖をいちばん奥以外は取り払っていて、演者が奈落から階段をのぼって登場してくる。代わりに袖にあたる部分にたくさんライトが置かれ、それに照らされるのが舞台を撮影現場みたいに見せていておもしろかった。あと蛍光灯を舞台上に何本も吊り、その色味の変化や明滅によってシーンの印象を視覚的にコントロールしている。普通の照明って照らされるものの方に意識が行くが、この形だと灯体そのものに意識が行くので光が質量を持っている感があり、興味深かった。吉本有輝子さん、た組とか木ノ下歌舞伎とかやられてる方なんですね。


物語について。チューリングは学生時代にクリストファーという同級生に恋していたが、彼は肺結核で夭折し、頭脳明晰で大人びた彼を崇拝していたチューリングは「僕が死ぬべきだった」と口にするほど今なおその過去に囚われている。チューリングが肉体がなくても精神は存在し得るのか?や、電子計算機は心を持ち得るか?という疑問を述べる背景にはクリスの喪失がある。終盤、ギリシャ人の青年ニコスとチューリングがじゃれ合うシーンは、ニコスとクリスを同じ俳優(田中亨さん)が演じているので、一瞬学生時代かと錯覚してしまうが、おそらくクリスはチューリングの気持ちを知らなかったし、「家に一緒に住める」と言われたときのリアクションを見る限り受け入れないだろうから、彼らにあんな過去はないんだと思う。そしてひとときの平和な時間の後、チューリングがニコスにエニグマ解読について語り始めると、やがて舞台奥に立つニコスはふたたび彼の記憶と幻想の中のクリスに見えてくる。

チューリングが死を選ぶ結末についてだけど、ラストの独白パートでチューリングは帽子掛けを舞台前方に持ってくる。そしてそこで見えない誰かにキスをしたように見えた。注意力散漫なのでいつからあそこにあったか思い出せず見逃してたかもだが、あの帽子ってクリスのものだったりする?そしてリンゴに青酸カリを振りかけて口にし暗転。前半でチューリングが白雪姫の映画を見てすごく感動した、姫は毒林檎を食べて王子の腕の中で目覚めるんだ、と言ってたのを思い返すと、この一連の行動は肉体がなくても精神が存在するという結論(それが心から信じているのか、どうしようもない現実からの逃避なのかわからないが)に至り、クリスに会うために行った行動に感じられて、当然ハッピーエンドではないんですけどバッドエンドとも言い切れず、薄暗いまま心の中に重たいものが残った。そもそも同性愛に対する迫害とか国家機密事項による行動制限がなければチューリングの苦しみもなかったわけで…と思うが、チューリングが理論と実用を結びつけコンピューターを生んだのにはブレッチリーでの日々が大きく影響していることは本人も口にしているので(そして戦争がなければブレッチリーはなかった)、運命とは何ともだなあと思う。この独白シーン、脚本にト書きがないので細部は演出だと思うが、すごくよかった。それでいうとチューリングが亡くなった後、ロス刑事(堀部圭亮さん)が無言のままかなり長尺で私物を片付けていくシーンも、その不可逆的な不在を感じさせてよかった(ここもト書きなし)あとシーンが変わっても前のシーンの小道具がわりと残っているんだけど、パットとのシーンの後にそのまま残されているピクニックセットをスミスが普通に踏んでいくのを見せることで、スミスの有害性を一発で伝えていると思った。稲葉さんの演出、クールで好きだ。

 

全体通して演劇的表現ではあるんだけど、感情面で物語に過剰な味付けをせず、悲劇の枠にはめこみすぎないことでかえって個々の人間がリアルな手触りを持って立ち上がってくるという印象をうけた。おもしろかったです。あとこれは特に主観だが、全員の演技について全く疑問符やトーンの違和感を感じることがなく、めちゃくちゃノーストレスで入り込めて良かった…俳優ってすごいな。

ワンシチュエーションの息苦しさ

舞台「ダブル」感想。全然褒めてないです。原作と柿喰う客と永島敬三さんが好きなので観に行った。


まずこれはいわゆる2.5ではない。ビジュアルの再現度は高めているけど、原作から改変・再構成されている割合がかなり大きい。そもそも原作が完結していないし、野田先生のコメントに「舞台だから、演劇だからできることを」とあったので原作者意向なのかもしれないが…。先に言っておくと舞台ならではの表現にするために改変すること自体は全然良いと思っている派、でも今回はその改変が本当にこれが正解だったのか??という疑問符が舞いまくってるという感想です。not for meとかでもなく疑問符。あとわたしはつかこうへい作品全然好きじゃないし詳しくもない(何作か見たことはあるけどジェンダー観が肌に合わない)のでそこはすみません。


改変が多いが、かといって原作とは別物として単体で完結しているという印象もない。舞台化にあたり、導入〜黒津監督のくだりをばっさり削り、多家良がCMで売れて引っ越すシーンから始めているんだけど、それによって九十九や愛姫と多家良との関係性がまるごとよくわからなくなっている。特に愛姫は撮影中や稽古などの彼女の良さが感じられるシーンが全然ないので、突然家に来るよくわからん女にしか見えないのでは…黒津監督や華江さんなど名前だけ出てくる人々についてもそこまで説明なかった気がして、原作を知らない人がこれを観たときどのくらい話についていけるのかよくわからない。


一番大きなこととして、これは友達とも話していたのだけど、ずっと多家良の家を舞台に進むことがまったく面白いと思えなかった。家の話じゃなくない?演劇の話じゃん。個人的には、これなら抽象度の高いセットにしちゃって、小道具だけ出し入れして原作に沿って重要なエピソードを抽出しながらどんどん場転して進めた方が絶対によかったと思う。演技のシーンはちょっと演じてみよう、台本を読んでみよう、みたいな感じで入るが、わたしはそうじゃなくて舞台に立つ天才役者としての宝田多家良が見たかったな…。中途半端に感じるし嘘っぽい。文ステ観たときには柿にも通じるキレのある演出でいいな〜と思ったし、原作ものだからと言ってらしさが全然出ないってわけではないと思うんだけど、今回はマジで煮え切らない印象だったのと、映像の使い方が意味わからなかった。冬山の車のシーン映像でやるの?!それこそ演劇の嘘で見せてほしかったのだが???あとプロジェクションマッピングが絶望的にダサいと思う。何で入れた??これ悪口みたいになっちゃうけど、正直一部の謎演出についてはネルケだからなのか?と思ってしまう部分はある。

 

役者については玉置さんの友仁はちょっと優しすぎる・ウェットすぎる気はしつつも(友仁ってもっと尖ってると思ってた)さすがだな〜とは思った。初級を上手の階段で読み始めるところの吸引力がすごいし、自分が喋ってないときに多家良を見る表情や仕草に感情が乗って見える。井澤さんも初見だったけど九十九がすごく生き生きしていて、長台詞のキレもあるし、九十九が初級下ろされて友仁に会いに来るシーンだけは好きだった。でもあれって原作だと友仁に会いにアパートに来てたはずだが多家良の家に来てるの謎ではある。

和田さんの多家良はどうにも多家良には見えなかったというか、ずっと和田さんだな…という印象だった。特に今日初級でセリフを噛んだんだけど、そのときのリアクションが本人が出すぎていると感じてどうにもだった。正直に言って繊細さとか生きづらさ、世界とのズレみたいなものがあまり感じられない。多分ご本人のパーソナリティ的にもかけ離れているんだろうが、その乖離がそのまんま出てると思った。あと、これは声質もあるのかもしれないが、台詞を叫ぶとき他の人より明らかに聞きづらい。2.5だと普段マイク使ってるからもあるのか?声が飛んでくる感じがしなかった。

女性陣は出番自体少なめなので正直あまり感想がない。冷田が思ったより柔らかく、愛姫が思ったより幼い印象はあった。飯谷は原作に存在してはいるとはいえほぼ舞台オリキャラと言っていいと思うが、コメディリリーフとして味があってかわいかったけど、そもそも飯谷が必要なのかはよくわからなかった。笑いのシーンを作りたかったから?でも永島敬三さんのことは大好きです。

なんかまだ2日目なのもあるとは思うけど、全員わりとセリフ言ってます感があり(井澤さんがそれがいちばん薄かった気がする)若干上滑りを感じた。これは現代劇だから自分がかなり高いリアリティをイメージしていたのに対し、演出がそうではないというズレなのかもしれない。

 

ここからは特にnot for meの話になるけど、わたしは黒津が好きだから舞台で見たかったし、ボロアパートの隣り同士で暮らすところからの多家良と友仁の歩みが見たかったし、セットなんかいらないからもっといろんな場面を見せてほしかったな…という感想に尽きるのかもしれない。ずっと息苦しくて、こんな作品だっけ…と思った。


あとなんか、色々調べていたらつかこうへいを履修しているかどうかが抱く感想にかなり関わってきそうな脚本演出かもしれないんだけど、個人的には別のフィクションを下敷きにしないと100%受け取れないフィクションってすごく苦手なので、もしそれが狙いだとしたらめちゃくちゃ嫌ですね。