言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

「舞台のおもしろさ」という言葉の幅

「Clubキャッテリア」感想。友達が福澤さんを好きで、自分がうっすら廣野くんを好きなので観に行った。色々書いてるけど、少なくとも褒めてはいません。ネタバレしています。


キャラクターたちは猫モチーフだけど、猫なのか人間なのか世界観に対する詳しい言及はなかったと思う。歓楽街カブキマチで野良として暮らしていたクロとミケは、ひょんなことからクラブ「キャッテリア」オーナーのラグドールに拾われ、“白服”=ホストとして働き、ホストの祭典“ホワイトナイト”でNo.1を目指すことになる。店には同僚のホストや、ライバル店「ドーシャ」のホストたちがいて、それぞれとぶつかったり親しんだりしながら切磋琢磨する2人。しかしクロが白服になった理由である母親の死には、ミケが飛び出してきた生家が関係しているということがわかり…。

明かされる背景は、クロは元々キャッテリアができる前にその場所にあったクラブのママの息子で、しかし悪徳企業に店を騙し取られて母親は病死。キャッテリアを買い戻すという目標のために金を貯めている。ミケはクロには孤児だと話していたけど、実はクロの母の店を奪った企業グループの坊ちゃん。良心の呵責から野良になったクロに金を渡しに来て彼と友達になったことで、家を飛び出して自分も野良をやっていた。ラグドールとドーシャのオーナー・ラガマフィンは一見犬猿の仲のように見えるが、実は古くからのライバルかつ良い友人で、クロの亡くなった母親に恩がある。そのためラグドールは悪徳企業の店を潰してそこにキャッテリアを作ったし、クロに目をかけている。クロは母の死後、嘘をつこうとすると発作が起きるという呪い(実際には呪いではなく自己暗示的なものと思われる)にかかっていて、彼のストレートすぎる物言いが周りに波風を立てるが、人を喜ばせるために嘘をつくホストという職を通じて、やがてクロ自身も変化していく。そしてミケはドーシャにスカウトされ、クロはキャッテリアに残り、ホワイトナイトで対決することになる。


物語としては、別に面白くもつまらなくもないという感想。ストーリーがひどく破綻しているわけではないし、クロの物語を通じて描かれる「本当のことを言うだけが正しさではない」というメッセージもなんとなくわかるけど、テンポが悪いし盛り上がりに欠ける。サイドのキャラそれぞれのエピソードが一応ある割に、全部セリフでサッと語られるだけなのでとってつけた感というか解像度が低く、登場人物に愛着がわかないし感情移入しづらい。物語の展開的にホストという職業の現実的な闇の面は描かれず、嘘をついても応援してくれる人を笑顔にしたい、お客さんが笑顔になってくれるのが嬉しいから夢を見せる!みたいな綺麗事だけで終わるのもどうなの…と思ったが、ここのリアリティラインを下げるために猫設定にしているのかな。あと多分若手俳優という仕事と重ねたい意図もありそう。

暗転が多いのと、場転の演出もなんでそうした?みたいなところがいくつかあった。たとえばミケとクロふたりのシーンで雨にするためにその前に雷を入れてるんだけど、そこでラグドールが突然大声で叫ぶのが唐突で何?と思ったり、全体的に演出が雑だと思った。あとこれはステラボールという箱の事情もあるかもしれないが、音量バランスの悪さもやや感じた(突然大きな効果音が鳴る)ヒプステみたいな楽曲主体の作品なら音デカくてもいいけど、無音で喋ってる時間も多い作品だから…。全体的に、別に怒りを感じるような虚無ではないが凪…という気持ちで見ていた。脚本がかが屋なんだけど、舞台の脚本やったことあるのかな…場転多すぎるのとかはドラマっぽいのかも。


劇中で歌とダンスが数曲あり、ラストのホワイトナイトのシーンがライブパートで、そこでもう一度まとめて披露される構成。シャンパンコールのシーンが本編中とライブパートで2回あり、その間キャストが客席に降りてかなり丁寧にファンサして回る。公式ペンライトがシャンパングラスをモチーフにしていて、これでキャストとエア乾杯ができる。ホストクラブという設定の中で、観客は演者からファンサをもらうことで擬似的にクラブの客になる。


この作品はいわゆるファンサ舞台だと思うが、別に客降りがなかったとしても成り立たないということはないと思う。歌もダンスもあるし、物語も最低限は成立してる。でも客降りの時間がかなり長く取られていて、そしておそらくこれがあるかないかで観客の満足度が大きく変わるんだと思う。確かに演者が自分の真横に来るのは珍しい体験だしアトラクション的感覚がある。しかし原作モノの2.5と違ってキャラに対する思い入れは特にないので、どうしても中の人としてしか見られず、シンプルに「みんな顔がいいな…」と思いながら見送った。原作モノの客降りはあのキャラが目の前に!!という興奮で体温が上がるけど、そういう感覚とは違う。キャストに自分の推してる俳優がいたら感じ方変わるかな?とも考えてみたけど、やっぱり熱狂はできない気がするな…たぶんこれはわたしが、俳優とは役としてステージに立ち物語の中で良い演技やパフォーマンスを見せる存在だと思っていて、公演中に俳優自身からアイドル的ファンサをもらうというのがあまりわからないのかも。イベントという形で、生身の本人として出演しているならまだわかるかもしれないけど。そしてキャラにファンサをもらった!と喜ぶには、この作品ではキャラに対する思い入れが生まれなすぎた、ということだと思う。


ここからは特に主観の話。わたしは荒牧さんが2.5俳優が下に見られる現状を変えたいというような発言をしているのを見かけていて、今回の企画が発表されたとき、演劇として作品単体で作り込まれたものを作りたいのかなと勝手に思い込んでいたのだが、別にそうではないということがわかった。よく考えたら荒牧さん自身もそういう方向性のオリジナルはほぼ出てないし、違うんだな。そして荒牧さんが周辺の通路から数席目までの客にひとりひとり「見てるよ!」みたいなアイコンタクトを送りながら移動していくのを見ながら、もしかしたらこの人はビジネスとかじゃなく、とにかく客を瞬間的に喜ばせるエンタメ舞台というものを心の底からやりたい、やるべきと思っているのかもしれないなと感じた(主観なので実際は知りません)客降りしてファンサすることで観客の満足度が上がるならやればいい、日替わりとかアドリブとかの客を喜ばせる仕掛けも同様、とにかくお客さんを笑顔にしたい!ということなのでは。観終わった後に深く考えさせるとか、演出的な仕掛けを散りばめて考察させるとか、観客の世界の見方を変えるとかではなく、その2時間でどれだけ何も考えずに楽しめるか、に特化した舞台。その享楽性ってホストクラブにも似てますね。そういうメタな作品なのか?


予防線みたいになるけど、エンタメ特化の舞台がそうでない舞台より作品として劣っているのかと言われたら、必ずしもそうとは言えないと思う。焼肉とプリンどっちがおいしい?というような話で、そもそも趣旨が違うものを比べようがない。でも演劇かと言われるとよくわからない。2.5は元々黎明期にはコスプレだなんだと言われてきたところを、役者や関係者の努力によって演劇としての作品性も高めてきている現状があると感じるが、この作品単体で見ると結局役者のアイドル的人気に依存したショーコンテンツだな…と思われても仕方ない内容だと思うので、個人的には2.5のファン層は皆こういう作品を求めていると捉えられたらちょっと心外というか、思想の違いを感じる(そもそもこの作品は2.5ではないんですけど、出演者はいわゆる2.5次元俳優なので、界隈としての見られ方の話)あと、演出家が「俳優の演技が悪くても成立してしまう芝居が好きではない」って書いてたけど、それならファンサパート入れない方がいいんじゃないですか…とは思った。


セットがキャットタワーモチーフなのはかわいいし、ヒエラルキーの可視化の面でも高低差が大きいのは良いと思ったけど、飛び上がったり飛び降りたりする動きが多いので、演者の足腰は若干心配になる。テーマソングがバーニラバニラ的に頭に残る。演者はみんな歌えるし踊れるし演技も壊滅的な人はいないので、売れる人たちのなんでもできる器用さみたいなものはかなり伝わってきた。あと通路に近い席だったんだけど、役者によってファンサ慣れの差を感じた。荒牧さんがすごいのは置いといて、立花さんや笹森さんもわりと細かく見ている印象だったが、ファンサのある舞台に出演した経験の有無が影響しているのかな。個人的には立花さんの演技の感じがかなり好きで、普通のストプレ出てほしいなと思った。ケイヤク観に行こうかな…(取れるのかは知らない)