言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

森は息がしやすい

イキウメ「人魂を届けに」感想。言いたいことがいっぱいありすぎて全然まとまりがない!ネタバレです。


森の奥で迷った人間を助け、自給自足の共同生活を送っている山鳥篠井英介)のもとを訪れた刑務官の八雲(安井順平)。テロ行為で絞首刑に処された政治犯の魂が形に残ってしまい、彼が母と慕っていた山鳥のもとに届けに来たのだ。山鳥の家には八雲が職場で出会った陣(盛隆二)がなぜか先に着いていた。彼は公安警察で、山鳥のもとから街に戻った人間が次々とテロ行為を起こしているため、山鳥が社会からドロップアウトした人間をテロリストとして洗脳している疑いを抱いたのだった。

山鳥はある事件で夫を亡くしたことから国を憎み、街を離れて葵(浜田信也)、鹿子(森下創)、清武(大窪人衛)、棗(藤原季節)と森で隠遁生活を送っている。物語の中では体制側である強者サイドと、反体制である弱者サイドが明確に分かれ、陣と八雲は前者、それ以外の登場人物は後者に分類される。現代社会=街を離れ、貨幣経済と隔絶された森で暮らしている山鳥たちは、いわば競争社会から降りた人々だが、森で傷を癒した子らが街に帰っていくことも山鳥は止めはしない。


過去に観たイキウメは太陽、獣の柱、関数ドミノ、天の敵。今作はおとぎ話っぽい柔らかめな世界観かと思いきや、思った以上に具体的な現代日本社会への批判、新自由主義やマチズモにノーを突きつける作品だと受け取った。過去作ではここまで具体的なメッセージ性を感じたことがなかったので印象の違いに少し動揺したが(作中に政治的メッセージを含むことの否定ではないです、政治的でない創作なんて存在しないので)よく考えたら過去に観た作品は全て再演だったから(外の道は観れてない)前川さんが今言いたいことはこれなのかもしれない。


明言されているわけではないけど、山鳥の夫が仕事で嘘を強要され亡くなったエピソードは森友問題の赤木俊夫さんをどうしても彷彿とさせるし、現実を認めずに言葉の意味を捻じ曲げてはいけないというようなセリフは安倍以降の自民党政権への痛烈な批判だと感じる。山鳥を篠井さんが演じている理由が気になっていたのだけど、終盤で陣の不躾な言葉からおそらく劇中でも男性であることがわかり、男は母親になれないと告げられた山鳥の「そういうものになろうと思ったんだよ」という言葉が沁みた。そう考えると結婚していない、葬式で端に追いやられて〜というくだりもセクシャルマイノリティとしての意味合いなのかなと思い、同性婚を認めない家父長制社会への批判も感じる。山鳥は身体的には男性なのだろうが男性らしさから降りて母となり、キャッチャー・イン・ザ・フォレストとして人間社会から弾き出され森で死に向かう人々を助けている。いわば独自のセーフティネットである。棗と八雲が、ここを出たら自分もキャッチャーになると言うのがこの物語における希望になっていた。しかし陣が山鳥を危険分子扱いするのは、彼の価値観においては競争社会から降りた次元で生きる男性という選択肢は存在しないからこそ薄気味悪く感じるのかもしれない。また山鳥のもとから街に戻った子らがテロリストになっているというのは、日本社会で一度コースを外れた人間が復帰する難しさや行き場のなさを暗示しているのかもしれない。


安井さん演じる八雲の描かれ方がすごい。前半、公安という明確な権力であり、山鳥への暴力的な態度など明らかに有害な男性性を振りかざす陣と比べると、八雲は無害に見える。でも過去が語られていく中で、彼も彼で望んではいなくとも加害性を持つことがわかってくる。冒頭に浜田さんが、暴力を見逃して金を押しつけられることで魂の一部を奪われる「押し買い」について話すんだけど、これは現代日本社会で起こる様々な暴力や理不尽、権力による簒奪を否応なしに目にしつつ何もできずにいる我々の魂も少しずつ削られているということなのかなと思いつつ、中盤の八雲が悪気なく妻(浜田さん)を傷つけた後に対価の商品券を渡すシーンで冒頭の話がフラッシュバックし、こういうところで妻は八雲に魂がないと言ったのかなと思った。この八雲の行動って妻の意思を無視したハラスメントであり、妻との自他境界が曖昧になっている(妻を自分の所有物と見做している)家父長制しぐさだと感じる。

八雲の過去の描き方が、現在と過去が入り混じる形で明確な切り替わりもなく描かれ、浜田さんが八雲の妻、藤原さんが息子、大窪さんが八雲の足を撃つミュージシャンを演じるんだけど、役から役をシームレスに行き来する自由さが演劇ならではの表現だと感じて面白かった。あとテロに遭って右足が不自由になったことに意味や自らの価値を見出そうとする八雲の姿勢には陰謀論的なニュアンスを感じなくもない。


「俺は公安だ」というセリフでもわかるように、自身と権力を同一化し、マチズモを完全に内面化してしまっている陣は、自分の魂が削れていることに気付けないので森の家にとどまることはできない。八雲はまだ死刑制度に対する疑問符など社会的地位と自我の乖離を意識できているので、森の家で自分の魂を吹き抜ける隙間風に気づくことができる。この物語を男性のみ7人で演じていることに意義があると思う。ここに女性俳優を入れたら成り立たない。山鳥のもとにいる男たちはそれぞれに病んだり弱っていて、苦しげに咳き込むと他の男がその背を撫でる。これに最初やや見慣れなさを覚えること自体が、男性同士のケアが現代日本社会において一般的でない事実を示している。ケアの象徴を母とおくことへの疑問符は当初あったが、山鳥が男性だと明言されたことで、現実の女性はこの物語においては捨象されていて、あくまで現行の男性中心社会を象徴する“父”の対立概念としての“母”なのだと納得した。

役者が全員うまい。特に篠井さん、安井さん、浜田さんがすごいと思う。


個人的には色々な演劇を観る中で、最近はもうシスヘテロのロマンティックイデオロギーのみをなんの疑いもなく前提にした作品を観るとぐったりしてしまうので(それ以外にもっと描きたいことがあるから省略という場合はまだいいんだけど)そういう意味ではかなり息のしやすい作品で良かった。