言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

生き残った子孫のひとりとして

だいぶ今更になってしまったけれど、劇団チョコレートケーキ「ガマ」感想。


沖縄戦中、首里近くのとあるガマに集まった6人。ひめゆり学徒隊の軍国少女、生徒たちを鉄血勤皇隊に送り出し死なせたことを悔いている中学教師、上から命じられた無謀な作戦で小隊を全滅させてしまった手負いの将校、ある軍務のために戦いはおさまりつつある沖縄北部へ向かおうとする2人の兵士、兵士たちの道案内を務める地元の協力隊の老人。軍人3人は本土の人間で、残り3人は沖縄人。


前提として、ストーリーはすごく個人的好みというわけではなかった。というか無畏が好きすぎる。帰還不能点でもちょっと思ったけど、古川さんは基本的に市井の人々への目線が優しいなと思う。これは悪い意味はないんだけど基本的に性善説なのかなと感じる。無畏だけはかなり厳しい目線だと感じたのは明確に責任の存在する戦争犯罪者を描く作品だからなのかなと。無畏の松井は最後上室とのやりとりで看破されたことで思いを吐露することはできたけど、全く許されてはいないので…。


ただ好き嫌いと作品としてどうかというのは別の話で、わたしはこの作品はすごいと思った。「ガマの中での軍人と一般人」という設定から導かれるテンプレからは逸脱したストーリーで、でも同時に6人の登場人物全員を生きた人間として描き、沖縄戦の悲惨さのみならず、それを引き起こした本土の人間の沖縄への差別感情までを主題に込める。


これはTwitterでも散々書いたんだけど、この作品が「死のうとする少女を大人の男たちが止める」という構図だからという理由でマンスプレイニングであるという劇評を見かけ、それは誤った読解だと思ったのでここにまとめておく。


まずマンスプレイニングとは「女は男よりモノを知らない」という偏見に基づいて男性が女性に対して偉そうな態度をとったり、上から目線で物事を説明するような行動を指す。この物語に出てくる5人の男たちは誰ひとりそういったことはしない。彼らは「日本人は天皇陛下のために死ぬべき」と叫ぶ安里を見下すどころか、その叫びを耳にするたびに後ろめたそうな、居心地の悪そうな表情を見せる。同時に「皇軍のために戦って死ぬ」と主張し続ける安里は、作中で一秒たりとも愚かに見える描かれ方はされていない。むしろ山城が驚くくらい物おじせず聡明な少女である。だからこそ知念以外の4人の男たちは、そんな彼女をそうさせてしまった日本軍の・皇軍化教育の罪を強く眼前に突きつけられることになる。

またそもそもガマにおける安里の第一属性は「女」ではなく「子供」である。(もちろん完全に切り離せるものではないけど)女学校4年だから15歳くらいで、劇中でも明確にセリフで「子供」って表現されている。男たちの安里への働きかけは、大人が子供を庇護しようとしている姿でしかない。

男たちは安里を教え導いているわけではなく、むしろ安里の姿をこれ以上ない鏡として自分達が加担してしまった罪の重さを突きつけられている。終盤の清水さんの一人芝居めちゃくちゃ良かった。下手で上半身だけ袖から見える形で倒れている西尾さんを下肢を失った負傷兵に見立て、私たちも死ぬから大丈夫、と宥めるシーン凄絶だった。


これはメタではあるけど今回の戦争六篇を全部見たので、劇団員3人はすごい短いスパンで全然違う3役をやってるのを見て衝撃を受けた。全員化け物的に上手くない?ガマは特に浅井さん演じる井上二等兵が見たことない浅井さんで良かった…初回見たときは岸本が東を殺すハッタリをかますときに井上がなんであんなに取り乱すのかわからなかったんだけど、同じ日本人であるはずの沖縄の少年を日本人として扱いきれずにスパイ疑惑で射殺させられた過去があるから、井上はあそこで「やめましょうよ日本人同士で殺し合うのは」と言うんだな。


大和田漠さん演じる知念もすごくよかった。この作品の登場人物を分けるなら軍人かつ本土の人間である3人は加害者側、安里と知念は被害者側、そして沖縄の人間だが生徒たちへの皇軍化教育に加担した山城は加害者でも被害者でもあるということになる。でも知念は被害者でありながら「許す」ではなく「許す許さないの話じゃないんだよ」と言うのがすごいと感じた。ひとつ上の視野にいる。


この作品のメッセージとしてとらえたのは山城の「たくさんの人が死んだからって君が生き延びない理由にはならない」と、知念が言う「人にはみんな優しい心がある」のふたつ。前者は帰還不能点の「全員を助けられないことはひとりを助けない理由にはならない」に通じると思う。後者は古川さんが描く物語に通底して存在する視点の気がして、それなのになぜ戦争が起きるのかということが、わたしたちが過去と向き合わなくてはならない理由だと思う。物語上、あのガマに集った人間が誰ひとり強権的でないことについてのおとぎ話性はどうしても感じるけど、ひとりでも強権的な人間がいた時点でこの物語にはならない(そしてそうならなかった無数のガマが存在することも作中で描かれている)ので、そこに関しては作り手が描きたかったものに対する好みだなと感じる。


今回の戦争六篇を全て観て、わたしは劇団チョコレートケーキが本当に信頼できる作り手だと感じた。繰り返しになるけど、正直フィクションにおける個人的な趣味だけでいったら、もっと登場人物間で巨大感情が行き交い(御涙頂戴ということではなく)誰も救われない結末が訪れる作品が好みだ。でも実際にあった戦争でそういうフィクションをやることはある意味無責任であり、常に誰かを傷つけたり誤解を生む危険が伴う。もちろん劇チョコもフィクションではあるんだけど、過剰な味付けをしていない。文献を元に歴史に向き合い、人間に対する優しさを持った物語を真摯に構築し、なおかつその中で加害者としての責任について問題提起することは、演劇の非常に意味のある在り方のひとつだと思う。

「ガマ」が単体で良い作品であるということはもちろん踏まえた上で、加えてこの戦争六篇の最後に観れたのが良かった。生き残った子孫であるわたしたちは常に過去を知り、未来に生かしていく必要がある。

 

舞台中央に斜めに配置した道があり、上手側がきつめの傾斜、下手側が階段になっている。上手が傾斜なのは足を怪我して立てない東も這いずって移動できるようになのかな。劇中では皆下手からガマに入ってきて上手が奥という形なんだけど、ラストシーンでガマを出ていくときにはその設定が壊れ中央の通路を客席に向かって歩いてきて、その姿が照明に照らされて劇的に美しく、やっとセットの意図を理解できたと思った。舞台はずっと暗くランタン照明が効果的で、暗いのに見るべきものは見える光の加減がとても良かった。