言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

並び立つ個々の物語

第27班「下品なジョン・ドー 笑顔のベティ・ドー 」ムシラセで見た鈴木研さんが良くて、その所属劇団なのと(今回はご本人いないけど)、函波窓さんが昨年の「病室」からゆるく気になっているので観に行った。


すのこみたいな木の板の隙間に照明を取り付けて舞台後ろの壁にしていて、下手にテーブルとソファ、上手にベンチ。下手が仲間が集まるバーや登場人物の家、上手が公園やカフェになる。


とあるバーに集まる若者たちを中心にした群像劇。登場人物には個人名がなく、かわりにその人物のエピソードを象徴するタイトルが与えられている。たとえば人間界でUBER EATSで生計を立てているイルカ(この世界では反捕鯨団体の活動の結果イルカやクジラに人権が認められている)には「カイジュウたちのいるところ」、下心のある男に触れられるとその日の朝にタイムリープする体質の女性には「時をかける処女(原題:VIRGIN)」といった具合に。これが面白い。群像劇って、結局何だったの?というぼやけた後味になりがちだと思うんだけど、個々のキャラがタイトルで総括されていることでエピソードがそれぞれ筋道立てられ、立ち上がって見える。各々どの角度から見ればいいかのアシストがある。群像劇ってどこにフォーカスするかによって受ける印象が変わるのが立体的で面白い。

また作品タイトルにも示されているように、彼らはJohn Doe英語圏における名無しの権兵衛、みたいな仮名)であり、どこにでもいるしどこにもいない。ちなみに女性は一般的にはJane Doeだと思うんだけどBetty Doeは何か元ネタがあるのだろうか。


登場人物全員が全員、わりとクズか、クズでなくても歪みを内包している。たとえば典型的サブカル草食系男子という印象の青年「夜だけが僕の味方」が、日本語を話せない留学生の女性「Hey Jap!どうして君は泣いているんだい?」に恋するのは、中盤で明かされるコンプレックス(アトピー体質とそれによるイジメ)も踏まえると、暗に自己肯定感の低さから自分より弱く自分を嘲らなそうな女を求めているという印象を受ける。その証拠に中盤までの夜だけは全くJapの国の言葉を覚えようとせず、友達であるカイジュウに通訳させるか日本語で話そうとしている。相手のこと好きなら相手の国の言葉覚えなさいな。しかしJapの祖国はセックスについて(平均的な日本人から見ると)非常に奔放な価値観だったため、夜だけは勝手な理想を裏切られいっそう苦しむことになる。ここは嫌な観客かもしれないが、正直ちょっと胸がすく思いだった。ただ、日本語を使うことに甘え、「本音を言うのは失礼」と言って上っ面のコミュニケーションを正解としていた夜だけが、空港のシーンで初めて彼女の国の言葉で手紙を書き、「他の人とセックスしてほしくない、わかってるけど割り切れない」と心情を吐露するのは一抹の努力が感じられる。人間に対するシニカルな目線と、かといって極端に露悪的にもなりすぎない適度な距離感が見ていて心地良い。


「主よ人の望みよ喜びよ」と「無職、人を裁く!」のカップルも、最初出てきたときの無職はめちゃくちゃ何も考えていなそうなんだけど、裁判員に選ばれたことで急速に意識が高まり(これもやや皮肉っぽく描かれてはいるけど、自分の受ける役目に対して真剣に向き合うこと自体は正しいと思う)彼氏の喜びと噛み合わなくなってくる。浮気の疑いから喜びのスマホを見ようとする無職、クラブで無職が男性といるのを見かけて追求する喜び、お互いに自分の問題点を棚に上げて全然相手を信じてないが、最終的にハリーゲームで無職が勝ったことで今までと逆のパワーバランスが確定する。ただこのふたりに関しては、喜びが元々ちょっとアホな無職を好きだったとしても、裁判員によって変わった無職ともなお別れたくないと言っているし、時かけがループを繰り返した結果として喜びが貞操帯に満足するところで落着しているので、この形のままうまくやっていくのかも。


カイジュウは元々イルカだけど、陸に上がって人間と話してみたいと思い整形手術を受けた。だからもう泳げないし海には戻れない。母親は海にいて度々手紙をやりとりしている。カイジュウって夢を持って故郷から上京してきた全ての人に当てはまりそうな部分があり、だからJapとも話が合ったのかなと思ったりした。なんで夜だけと友達になったんだろうな。

あと「七つの大罪」というキャラ(暴食、色欲、傲慢などの特徴を持つ)について、その性格の理由がメンタルに抱えている問題であると明かされるシーンの「病気は友達やめる理由にはならない」とさらっと時かけや夜だけが言うシーンはかなり良い。大罪は客観的に見ると人間的にかなりクズなので関わりたくないが、友達になるかどうかってそういう人間性のよしあしとはちょっと別のところにあったりするしな…と思う。性格の悪い人間の方が話面白かったりもするし。最後に夜だけがJapに告白するシーンで賭けを始めたバーの面々が、事情を理解してない単純以外全員結局成功する方に賭けるのも、何だかんだ友達なんだなと思わせる。綺麗事になりすぎない適度な描き方が良い。


時かけが夜だけの恋愛に異常なほど干渉し、自分のループ体質を使いまくってでもJapを追わせようとするのは、その前のシーンで唯一自分に触れてもループしなかった異性(時かけにとっては下心のない男性がいるという証明)がイルカだったことがわかり、自分も恋愛できるかもしれないという一縷の望みが消え去ったからなのかな。自分が絶対得られない(と感じている)恋愛のチャンスをふいにすることが許せない。時かけの体質って深く考え始めるとかなりヘビーで、だって時かけ自身相手に下心があったっていいと思って身を任せた瞬間だってあったかもしれないのに、タイムリープによって全部なかったことにされてしまう。だから酸っぱい葡萄的な気持ちもあって異性としての男性に対して否定的にならざるをえないのかなと思う。ラストで1日にひとつのことしか覚えていられない「単純な毎日の繰り返し」が、好きな人の思い出を忘れて夜だけにオタマトーンの演奏を聞かせる約束を覚えていたときに茫然としてたのもそういうことなのかな。


あと「音楽が鳴れば歌うし踊るんだ」と名付けられたキャラクターがいて、彼女については登場人物なんだけど人格はあまり感じられず、物語の半歩外にいる人間型舞台装置という印象(彼女に声をかけることで曲が流れたり、逆に曲が流れている転換タイミングで踊って場を繋いだりする)函波さん演じる「GAME of HARRYS」(喜びの飲み仲間のチンピラで、変なゲームを108つ持っている)も、音楽よりは少し人格があるけど、やや舞台装置的な印象がある。このふたりだけクラブのシーンなどで兼ね役があるのもそう感じた理由かも(音楽については兼ね役というか、どこにいても音楽なのかもしれないが)


調べたら作演や演者と自分がだいたい同年代なのもあると思うんだけど、空気感とか掛け合いの感じが適度にリアルかつ適度にフィクションでよかった。これ高齢の人が観たらどう感じるんだろう。あと先日見たばかりの劇団スポーツでもUBER EATSの配達員が出てきたし(はしご割ありがたかったです)「だからビリーは東京で」もそうだったな。演劇やってる若者は配達員やってる人が多かったりするのだろうか。時代性を感じる。


キャスト的にはJap役の箸本さんが留学生の演技すごくうまいなと思ったのと、単純役のもりみさきさんも下手するとすごいわざとらしいキャラになりそうなところでちょうどいいバランスだと思った。わりとみんな好き。喜びが作演の方なんですね。大罪の罪名が出てピン当たるときのポーズのバリエがおもしろかった。あと函波さんのハリーは最高の愛すべきチンピラでめちゃくちゃ好きだった。あの服と髪型死ぬほど似合うな。茨城のローマ法王(土浦のショーパブに顔パス)のくだりすごいウケちゃった。


次は7月にこまばアゴラとのことで観に行きたい(また鈴木さんいないが…)その次は12月に星のホールまで決まってるのすごいな!ここ1年くらいで小劇場の演劇を見るようになったけど、これまでは少し上の年代(40代くらい)の劇団ばかり見ていたので、どこもわりと落ち着いた活動で本公演は年1本あればいいねくらいの感じだったから、バリバリやってる若手(って言っていいのかわかんないけど)の劇団見るとすごい楽しい気持ちになるな、次も楽しみです。