言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

縁もゆかりもない人間の表現を観る理由

モダンスイマーズ「だからビリーは東京で」

TLでよく名前を見かけるのと、今好きになれる劇団を探しているところなので観に行った。

主人公の凛太郎(当パンと台本で郎の字が違うが台本に準拠)は経済学部に通う大学生。今までの人生で何かに熱心に打ち込んだ経験がなく、たまたまミュージカルの「ビリー・エリオット」に感銘を受けて演劇を志し、小劇団「ヨルノハテ」に入団する。ヨルノハテのメンバーは同じ専門学校出身である真美子、乃莉美、進、能見(作演)、後から加入した加恵だが、真美子と乃莉美は幼なじみで互いに複雑な感情を抱いており、真美子と進は同棲しているが乃莉美はずっと進のことが好きである。能見の脚本は難解かつ概念的で観客は減り続けており、本人もスランプに陥っているし劇団員たちも内心疑問を抱いている。ある日加恵が事務所に所属するために劇団を脱退するから次の公演に出られないと言い出したことから劇団は公演を中止せざるを得なくなり、そのままコロナ禍に突入し活動できなくなる。凛太郎は加恵と肉体関係を持つが加恵には韓国人の彼氏がいる。進はコロナ禍で副業の家庭教師が大盛況となり、そちらの比重が増したことから人生を考え直し、真美子と別れようとする。そんな中能見が劇団員を集める。今まで能見の実家が所有する材木置き場を稽古場にしていたが、コロナ禍でその取り壊しが決まり、進や加恵も退団するため劇団は解散することになる。能見が最後に自分達で自分達自身を演じる作品を書きたいと言い出し、この物語が劇中劇だったということがわかる。後ろにト書きが投影される演出意図もそこでやっとわかった。

また並行して凛太郎とアル中の父親との関係が描かれる。凛太郎は母親に頼まれて年に一度様子を見に行っているが、断酒して居酒屋を営んでいた父親はコロナ禍で店を閉めざるをえなくなり、代わりに得た補償金でスリップしてまた酒を飲み始めてしまう。わたしは個人的に家族のつらさ的な演劇がかなり苦手なので(家父長制的なニュアンスを感じた瞬間に強い怒りが沸くと共に、家庭環境に一切の問題を抱えたことのない自分はそれに対してコメントすることを許されていないとどこかで感じてしまうため) 最後の父親とのシーンは正直苦痛だったけど、中盤父親らしいことをしようという気持ちから風俗に誘ってくる父親に対して、凛太郎がその思いは汲み取りつつも表現方法に決定的な断絶を感じるシーンなどは、実の親との間にリテラシーのズレが生じてしまうのはしんどそうだなと思ったし、このパートがあることで凛太郎がビリーに思い入れる理由が彼の家庭環境にも起因していることがだんだんわかる。

凛太郎役の名村辰さん、映像メインの方のようで舞台は数作しか出たことがないとアフタートークで話していて、その瑞々しさや舞台自体を楽しんでいる感じが凛太郎というキャラクターによく合っていたと感じた。また真美子と乃莉美の関係性はどちらの側から語られるかによって全く印象が異なるが(乃莉美は自分のやりたいことを全部真美子が真似て奪っていくと感じていて、真美子は自分では何も決められない乃莉美の面倒を見てきたと感じている)おそらくこれはある程度ずつ双方とも真実なのだろうと思う。人間関係にはそういう騙し絵みたいなことがある。能美役の津村さんが、ずっと脚本も書けないし悩み続けていてどうにもならなく見えるのに、最後に書きたい話があると皆に告げるシーンではすごく力強く切実に見えて良かった。揉めるシーンなどかなりクロストークするんだけど、台本見たらそれも全部きちんと台詞と被せる部分が決まっているんだな。深刻な内容でも思わず少し笑ってしまうようなところもあり(お金を配ろうとする進に他メンバーがドン引くくだりなど)見やすいと感じた。

 

バンドがバンド自身について歌う楽曲が好きなんだけど、劇団について書かれた舞台も好きだな。メタ構造をどう描くかによって、その作者が舞台や芝居というものをどう見ているかが垣間見える気がするからかもしれない。

全くもって私事ですが、わたしは今現在進行形で大好きな劇団の大好きな俳優が退団したかもしれない(しかし公式にお知らせなどは何も出ていないのでよくわからない)という状況なので、作中否応なしに時々それを思い出してしまった。特に乃莉美が劇団を立ち上げた頃を回想するくだりで専門学校時代のメンバーが並んで進んでいくシーンと、ラストで能見が、自分達のためだけの舞台をやろう、凛太郎に演劇を知ってほしいと言うシーンでは泣いた。劇団に限らずバンドもそうだけど、大体が学生時代に知り合って同じ夢を見て結成して、でも人間と人間だから続けるうちに意図せずとも変わっていき、時に脱退したり休止したり解散したりする。それはどこまでいっても彼ら自身の物語であり、当事者以外からは決してわからない感情が存在している。そもそも目的やビジョンがはっきりしている仕事と違って(最終的に仕事になっていくことはあるだろうけど)漠然としたイメージを共有して進んでいくという点で表現活動の集団を維持するというのはすごく難しいことだと思うし、維持し続けるためには構成員がそれ相応のコストを払っているのだろう。当然のことだけど改めて実感した。

ヨルノハテは元々人気が高くはない劇団という設定だし、彼ら自身も自分達をプロだと言い切れないでいるような感じだから、この作品中で観客の存在は全く描かれない。それはもちろんそれでいいのだと思う(ブレるし)能見が演劇を続ける理由を問われて「これでしか自分を褒められない」と言うように、彼らの演劇はどこまでも自分達で完結している。それでもわたしはこの舞台を観て、描かれないけどきっと存在したはずのヨルノハテの観客のことを考えてしまう。劇団員の彼らがなぜ演劇をやるのか、と問うように、わたしたち観客はなぜ縁もゆかりもない人間の表現を観るために足を運ぶのか。そこで描かれる物語から何かを受け取り考えることで、自分の人生が少し救われたり光が差したりすることは確かだ。舞台を降りた彼らの人生を観客は知る由もないけれど、今まで受け取ったものの分だけ、せめて幸せであるように祈ること、そしてまたいつか舞台に立つ姿を願うことは許してほしいと思う。