言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

ガムテープのこちらとむこう

やしゃご「きゃんと、すたんどみー、なう。」タカハ劇団を観る予定があり、セット券がお得だったのでせっかくならと思って観た。結果タカハ劇団は全公演中止になってしまったのですが…公演が観られるだけで幸運なご時世になってきているなと思う。


長女が知的障害者の三姉妹が暮らす家が舞台。次女が結婚して引っ越すことになったが、引っ越しの日に長女が暴れたことから、次女の配偶者、三女の友人、長女の施設の職員、同じく知的障害を持つ恋人、次女夫妻の引っ越しを頼まれた業者、次女の夫の教え子らが物語を繰り広げる。

次女が家を離れることになると三女が長女の世話をすることになるのは明らかで、それについて互いにかすかなわだかまりが感じられる。そんなとき長女のもとを授産施設で出会った恋人が訪ねてきて、ふたりは結婚すると言う。暮らしていけない、無理だと止める周囲と、それに積年の苛立ちを爆発させる長女。一悶着の末恋人は帰っていき、後味の悪い空気の中、三女は死んだ母の幻覚と話し「自由に生きてほしい」と言われる。そして三女は長女の結婚に賛成すると決断するが、そこに次女の配偶者から、帰る途中で恋人が車にはねられたという電話がある。最後は恋人に会いに行くために化粧をねだる長女に次女が化粧を施すシーンでそのまま終わる。


「きょうだい児」がテーマと聞いていたのでもっと終始深刻なトーンの話かと思っていたけど、中盤までかなりドタバタの部分があり観る側としては正直少し安心した。特に引越し業者社長役の佐藤滋さんがめちゃくちゃおもしろい。嫌な感じのないおもしろさ。あの家の外の人間だからこその清涼剤になっている。八つ当たりするシーンも子供みたい。家族つらい系演劇が苦手なので身構えていたが、巻き込まれた引越し業者たちとかエキセントリックな友人のウサギとかピースケの要素とかがフィクション性になっているせいか入り込みやすかった。でも決して軽い話ではない。

これは主観なので正しい見方だとも思わないんだけど、わたしは劇中で大越が「普通って何?」と語るくだりには全く同意できなくて、対立におくのが正しいのかもわからないが綿引の意見に同意していた。「ガムテープくらいの太さの線」は現実に存在するし、だからこそ月遥と花純は苦しむ(という言葉選びでいいのかわからないが少なくとも何かしらの痛みを抱える)ことになったのだと思っている。正志が事故に遭った知らせの後、最後に花純がピースケの卵を落として割ろうとするシーンもその現れだと思う。でも大越がこういう男でなかったらおそらく月遥にプロポーズすることもなかったわけで、同時に綿引は由香里が雪乃と正志の関係性について、あのタイミングでは空気を読めないとも言えるような吐露を漏らしたことをきっかけに彼女との未来を考え始めた(とわたしは解釈した)ので、大越や由香里のような意見が世界をよくすることも事実だと思う。理想と現実の擦り合わせと言ってしまうとめちゃくちゃ陳腐だが…。そしてラストのあの場面では月遥が卵をギリギリ受け止める。線はあるけれど、その線で全てが分断されるわけではない。

また、花澄にしか見えない母は当パンにも記載がある通り、霊ではなく花純の幻覚なのだと思う。これは母が月遥の言葉にはちゃんと返事をせず、花純としか話さないため。だから花純は自分自身との対話で自由に生きてと言われて、それをふまえて雪乃の結婚に賛成するのだと思うと何とも言えない気持ちになる。それが花純の思う自由だととらえていいのか?


古い日本家屋の一室を再現したセットに開場中からもう役者がいて演技が始まっていて、終演アナウンスも役者が残ったまま行われる演出が、物語に明確な始まりと終わりの切れ目を感じさせなくて面白い。上演されるのではなく(されてるんだけど)そこに物語が置いてあるという感じだ。セットの細かいところのリアリティ(固定電話って下にああいうよくわかんないレースの布敷いてあるよな…とか)がとても良い。あと最初は蝉の声と夏の日差しっぽい明るさで、展開に集中しているうちにだんだん暗くなっていき、劇中で部屋の電気をつけたときに初めて暗さに気づいて、これも現実でよくあるやつだと思った。演劇史とか何も詳しくないんだけど、青年団平田オリザさんだから現代口語演劇でそれがあの現実の会話みたいに被りまくる台詞回しということであってますか?台本を買ったらどのくらい被らせるかや間を開けるかまで徹底的に指定されていて驚いた。