言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

考え続けることの大切さ

劇団チョコレートケーキ「無畏」の長い感想。めちゃめちゃおもしろかった!史実を描く中で人間の多面性や重層的な心の動きが描かれることによって、観客の感情もどんどん移り変わって操られる。歴史への批判的視点を持ちながらも突き放さず、向き合って確かめていく姿勢に意義を感じる。


南京事件、いわゆる「南京大虐殺」を起こしたとされる中支方面軍の司令官・松井石根陸軍大将と、極東軍事裁判で彼に関わることになった弁護士・上室亮一のやりとりを通じて、南京で何が起きたのか、その理由、責任とは何だったのかを描いていく物語。


松井は元々アジアが一体となって欧米列強に対抗するという「大アジア主義」を唱えて日中友好に尽力しており、過去には蒋介石に便宜を図ったこともあった。だが日本と手を組むよう蒋介石を説得する試みは失敗、上海派遣軍(後に中支方面軍)司令に就任した松井は上海防衛後、参謀本部の待機命令を無視し南京への侵攻を決める。しかし上海派遣軍と第10軍の合併である中支方面軍で、松井を老体と侮る将官たちは命令を半ば無視し、兵站が整備されていない中で徴発を行いながらの進軍で軍規は崩壊。更に南京陥落後、松井が現地の状況を把握できていないまま入城式を急がせたこともあって中国兵への残党狩りが加速、統制できず殺戮につながる。

物語の構造としてはシンプルなんだけど、こういった流れが松井と上室の会話からどんどん暴かれていくにつれ、松井への観客の印象が変わっていく。最初、高潔な理想を持ちながら虐殺を止められなかった悲劇の人みたいな描かれ方したら嫌だな…と思っていたが、それは杞憂で、松井が自分の行動について理論武装を固め「私の預かり知らぬことだが、責任は私にある」を繰り返す姿勢を上室が徹底的に論破していく。ここの「それは思考停止です」という指摘がしっくりくる。あとなぜ上海では起きなかった虐殺が南京では起きてしまったのかを考察するくだりの上室が、心の箍が外れていく表現として本が重ねられた机を片っ端からひっくり返していくんだけど、ここの演出がめちゃくちゃ良いと思った。言葉で説明するだけでは弱いけど、暴力や略奪をそのまま舞台上で表現するのは違う。本って多くの人がなんとなく大切に扱わないといけないものという感覚を持っている気がして、だから効果的な見せ方だと感じた。

そもそも大アジア主義自体が現代日本人からすると何言ってるんだって印象だが(他国からしたら日本にその指揮をとられる筋合いもないし)松井はピュアにそれが正しいと信じていた様子なので、帝国主義を内面化した人間の気持ち悪さをずっとうっすら感じていた。どんなお題目唱えようと他国に干渉するのは悪でしかないだろ。

ただ、松井が完全な悪としてのみ描かれているわけでもない。終盤上榁から「松井さんの人間としての心情が聞きたい」と追い詰められた松井が舞台の前面で這いつくばり、自身の中にあった名誉欲、功を焦る気持ちが南京進軍を急がせ全てを引き起こした、日中友好のためと唱えながら中国の民を苦しめているのが怖かった、と吐露する圧倒的シーンの後、ただ中国の人々を愛していたのは本当だ、と言う松井に、上室は目を合わせて向き合い、信じますよと言う。ここでもっと突き放し切ることもできると思うけど、逆に言えばそれは過去と現在の断絶を生んでしまうのかもしれない。ぬるいヒューマニズムと感じる人もいるのかもしれないけど、わたしはこれが逆に地に足のついた誠実さだと感じた。あと舞台の手前だけ一段高くなって八百屋舞台になってるセットが初め不思議だったんだけど、このシーンが低い姿勢で行われるのをきちんと見せるためなのかも。

役者はみんなすごいが、とにかく西尾さんと林さんがすごい。林さん、まだ50歳くらいらしいんだけど、一見高潔に見えつつもその裏の執着を捨てきれない老人だった。あと小柄なので柳川(原口さん)と中島(今里さん)に挟まれたシーンなど、哀れさも感じる。西尾さん演じる上室は実在しないキャラだと思うんだけど、装置ではない人間らしさがあり、わたしはずっと上室に感情移入して観ていた。君みたいな部下がいたら違ったかもと言われて、私だってその場にいたらどうなっていたかわからないと返すのがいい。あと西尾さんはつい先週末に帰還不能点を観たばっかりなので(それは岡本さんもそう、僧侶すごかった)こんなにすぐスイッチ切り替えてこんなにバチバチの演技できる!?と本当に尊敬した、しかも新作も出るんですよね?演劇サイボーグじゃん。西尾さんのお芝居もっと観たい。去年のペーター・ストックマン見逃したの本当に後悔している。あと渡邊りょうさん演じる田村は松井の私設秘書で、松井に心酔しているから彼を救おうとして南京であったことを調べるんだけど、このくだりが虐殺なんてなかった派への懇切丁寧な説明になっているのも皮肉が効いてていい。全体的にヘビーな話ではあるが、田村と上室のやりとりなんかはおもしろな瞬間もあった。

とにかく観ているうちにどんどんいろんなことを考えて感じて登場人物や物語の印象が変わっていくのが、生で観る演劇のおもしろさ!って感じで最高なので本当に観てほしい。あと戯曲売ってください!!!


戦争六篇では軍部を描いたこの作品が唯一男性キャストのみなので、人口の半分の人間だけで運営される政治や国家がまともなわけないよなと改めて感じた。あと松井は中支方面軍司令官ではあるが司令部に人員は少なく、第10軍を指揮する柳川や中島からは完全になめられていて、こういう構造的問題もあったんだろうな…という気がした。


あと照明。開幕、お経が流れる中で完全暗転し、スポットで上手手前の松井と後ろの壇上の上室だけが浮き上がるライティングがすっごくよくて、この時点で心を掴まれた。松井と田村の東南アジア行脚シーンでの眩しく白い真夏の日光、松井と上室が対峙するシーンのくっきりしたドラマチックな陰影、処刑シーンで松井だけを照らすスポットの静寂、他にも色々あったと思うけど、照明に関する知識が足りないからうまく説明できん!とにかくすごい。照明によってその場の作画が変わる(水彩画になったり油絵になったり、劇画になったり4コマ漫画になったりする)ということが最近少しだけわかってきてめちゃくちゃ面白いんだよな。この照明はこういう狙いでこういう技術を使ってる、って話聞いてみたすぎる。


普通に考えて6作品を2劇場使って同時上演するって狂った試みだし、やってる側すっごい大変だと思う。でもこんなむちゃくちゃしてるのに作品クオリティに全く妥協を感じない(セリフが甘いとか全然ない)のがすごい。もちろん劇団や演者の努力によるものだと思うけど、そのおかげで観客としては単純に祭りの気持ちで楽しめる。あとひとつの劇団の作品をこんなにぎゅっとして観ることってあんまりないので、作風への理解とかも深まった気がして、劇チョコのことすごく好きになってしまった。西尾さん寄り箱推しです。そしてこうして一気に見ることで上演の通底したテーマというか、生き残った子孫たちである私たちが、戦争にきちんと向き合い学び続けないといけないのだということを強く感じる。こう書くと教科書的な表現になってしまうけど、体感としてわかる。


これは好みの話ですが、ここまで3作品見て、帰還不能点は初演観たことあっての再演なのでちょっと置いといて、わたしは追憶のアリランより無畏の方が好きだ。アリランももちろん面白くはあったんだけど、ちょっと私としての人間ドラマに寄りすぎている感があった。短編2本も新作のガマも楽しみ!!

わたしたちにできることはある

劇団チョコレートケーキ「帰還不能点」(再演)感想。初演も見たのでその感想も貼っとく。あらすじ書いてあります↓

https://fusetter.com/tw/9RHN8Acm


初演の帰還不能点(今里さんが出ているから行った)が初劇チョコなんだけど、今思うと舞台一般としても劇チョコとしても変化球なとこから入った気がする。劇中劇自体はまあ見るが、演者がどんどん入れ替わっていくっていうのはあんまり見ない。初演の頃から理由を考えていて、セリフ量の偏りを避けるためもあるだろうが、場面ごとに同じ人物の違う印象を見せられる効果があるんだなと今回改めて感じた。東條英機近衛文麿松岡洋右を複数のキャストが演じるけど、そのときによって強調される側面が違う。たとえば東谷さんが演じる松岡と、村上さんが演じる松岡では前者の方が押し出しがよく、後者の方が追い詰められている印象がある。あと模擬内閣でやったポジションがやはり本役っぽく、それ以外の人が演じているとややふざけ感がある。柳葉魚さんが演じる近衛文麿とか、はわわ〜!って感じなんだよな(かわいいです)

再演で特に思ったのが、黒沢さん演じる道子が、無邪気に質問してるように見せながら実は最後のあの問いまで男たちを導いていってると感じ、一枚上手な印象をうける。あと演じ分けがすごい。道子から松岡の妻は別人ながら属性は地続きな感じなんだけど、その後近衛の妻になった瞬間「旦那様」の発声の切り替えで震える。


初演の感想にもよかったって書いてたけど、今回陸軍の城を演じる粟野さんがさらにめちゃくちゃよかったな…別に演劇やってる人間ではないからこの感想が正しいのかはわかんないけど、ものすごく演技がうまいと思う。城という人間を演じ、城が劇中劇として誇張して演じる東條英機を演じ、でも天皇から首相を拝命する瞬間は劇中劇じゃなくて本物の東條英機だと思ったんですよね。あの瞬間背景にある色々が何も見えなくなり、東條と彼が見上げる昭和天皇だけの空間になった。そういう強烈な引力があった。


終盤村上さん演じる木藤(外務省)と粟野さんの城(元陸軍)がぶつかるシーンで顕著だけど、この作品の中だと岡田の「わたしたちにできたこと」という問いかけに対して武官の方が己を省みる姿勢があり、文官の方がやや距離がある(木藤は出世コースに残った千田に対してコンプレックスを感じている様子も見受けられ、複雑な内面ぽいが)。武官は戦後所属組織を解体され、否応なしにも向き合わざるを得なかったこともあるだろうけど、この作品自体が(軍はもちろん無罪ではないとはいえ)太平洋戦争における文官の責任にフォーカスした作品なのもあるだろう。学校で習うような歴史においてあまり文官の責任って描かれないけど、実際には存在する。それは決して罪人探しをしたいということではなく、皆が自分ごととして戦争に向き合うためのひとつのアプローチなのだと思う。


ツイートもしたけど、追憶のアリランと帰還不能点をマチソワして思ったのが、どちらも「仕方ないと言うことの罪」が描かれている。戦争を直接的に知らない人間が増え、無責任な歴史修正主義がはびこっている今の時代に、あえてこれらの作品が上演されることには大きな意味があると感じる。仕方ない戦争なんて存在しない。わたしたちにできることはある。人間は自己を正当化したい生き物であるからこそ、過去を美化する甘い言葉に慰撫されてしまいがちだけど、歴史に対してまっすぐに向き合って受け止め、そこから学んで未来につなげていかなくてはならない、と強く思う。劇チョコはそういうストレートな軸を打ち出せるのが強いし、その背景には古川さんが史実に基づいて生み出した物語の強度があるんだろうな。あと4作品観るけど全部楽しみだし期待してる。


ここ2年くらいでいっぱい舞台を観て、基本的に脚本と演出が同じ作品の方が好きな傾向にあるんだけど、劇チョコだけはそうじゃないんだよな。戯曲読んで、必要最低限しかト書きがない!とびっくりし(自分の中の基準が野木萌葱さんなのもあるとは思うが)相互の信頼を感じた。帰還不能点だと、松岡と近衛それぞれの妻とのシーンであえて松岡近衛は客席に背を向けて顔を見せず、妻にフォーカスを当てるシーンの見せ方や、平沼騏一郎板垣征四郎の関西弁漫才が好きだな。初演より笑わせたいシーンのドタバタみが増していた気がする。城に体重全預けしてすっごい斜めになってる泉野(西尾さん)とか笑っちゃうわ。あと吉良役の照井さんだけ初演からキャス変なんだけど、溶け込んでいたし、公職追放で不遇な目にあった吉良の、過去より丸くなりつつも(ならざるを得なかったのだろう)やや鬱屈を抱えた様子が感じられた。照井さんは公演期間中毎日Twitterスペースをやられていて(前の他の舞台でもそうだったんだけど)その自ら発信して宣伝していく姿勢とても素敵だなと思っている。


照明が主張しすぎないのに良いな〜と思う。劇中劇に入る瞬間にパッと切り替わるメリハリや、道子と岡田演じる山崎が向き合うシーンで、初め分断された四角いスポットがそれぞれに当たっていて、そのあと2人が立って向き合うと2人を照らす光がつながる(道子が山崎に籍を入れてと言うくだり)のがよかったな。スペースでも話されてたけど、最後にひとつ残った椅子にスポットが当たって山崎という存在を示唆するのも。あと最後の模擬内閣でそれまでにないくらい照明が真っ白に明るくなるのが救い、人間の善さを感じて初演からとても好きなポイントだ。彼らの帰還不能点は模擬内閣で、それを反転させて改めてやり直す姿を通じて、彼らのこれからの生き方を示唆しているのだと思っている。

偏りが生む美しさ

初めて壱劇屋を観たオタクによる「憫笑姫」の長い感想。めちゃくちゃネタバレしています。


劇団の名前だけ確かエンタステージのスペースでおすすめされているのを聞いたことがあって、今回牧田哲也さんが「足癖の悪い殺陣」をやるというので観に行ってみることにした。牧田さんのこと刀ステの穴山小助からなんとなく好き。


前提としてノンバーバル作品で(叫びなどの声は発する)マイムと殺陣でストーリーが進む。とにかく殺陣。8割くらいの時間は殺陣なんじゃないかと思う。運動量がえぐい。


ストーリー。戦で母親を殺され2人で生きてきた姉妹のミラとエラがある日国王に見初められ城に召し上げられる。しかし国王はサイコ野郎で(という解釈でいいのか?)姉のミラを王妃として軍の指揮をとるという名目で女官と共に戦場に放り込む。妹を人質に取られたミラは戦場では怯えるばかりだったが騎士団長の助けもあり何とか生き残り、やがて自ら強くなることを選ぶ。エラも姉に守られてばかりでは嫌だ、共に戦いたいと志し、ミラ付きの女官3人組も加わる。騎士団長からの特訓の末、強くなった女たちは兵士らにも認められていくが、それが面白くない王は側近を使ってミラを闇討ちしようとし、ミラは顔を切り裂かれる。刺客の正体が側近だったことに気づいたエラが王を殴り、謀反人となった女たちは王に追われるが騎士団長が助ける。最終的にエラが側近、ミラが王を倒し、次の王となる。

なお王妃という名目で戦場に送り込む、というくだりは劇場で見ていたときにはよくわからず、単に性格が最悪だから娯楽として女を送り込んでるのかと思っていた。台本を読んだらわかった。

ストーリー的には王に反旗を翻した瞬間にこれ全員死ぬENDか?と思ったので、比較的光の終わり方だったなという印象。王はあんな人格破綻イカサイコパスなのに、村で姉妹を見初めたときの周りの人々のリアクションからすると支持されてるっぽいのだけはよくわからなかった。あと民が支持してるなら人格がドブでも統治はちゃんとしていたのかなと思うと、王殺した後この国大丈夫なのだろうかという懸念はある。ミラは戦は強くても村娘だと思うので…。


ここまで色々書いたけど、そんなのは全部前置きです。とにかく体感型エンタメだった。最前で観たのもあると思うが、目と鼻の先で剣が振り回され、拳が振るわれ、汗が飛び散り、斬り結ぶ剣の音と風の音が爆音で鳴らされるので、荒涼とした戦場に魂だけ飛ばされた気持ちになる。こんなもん4DXだよ(違う)

運動神経が欠落した人間としては、どうしたらこんなに大量の殺陣を覚えてこのスピードで危なげなく進めていけるのか全然わからない。本当にすごい。普通、舞台において殺陣ってあくまで表現の一形式だと思うんだけど、そこにステ全振りしているからレーダーチャートがめちゃくちゃになっている。その極端な偏りに美しさを感じる。何かひとつの目的だけのために作られた存在って美しいじゃないですか。刀剣だって美しい。人を斬るためだけに作られた存在だから。そういうタイプの作品だ。なんか誤解を招きそうですが、別にとっつきにくさはなく入りやすいエンタメです。単にわたしがそんな印象をうけたというだけの話。


ミラの西分さん、殺陣に説得力がある。それが演技なのか自然な反応なのかはわかんないんだけど、強くなった後も剣を振る動きに剣の重みの実感が感じられるというか、無制限にぶん回せるわけではなく、めちゃくちゃ頑張って切っ先をコントロールしているという印象を受けるのがリアルでよかった。あとカテコで喋ったらおもしろ関西人だった(他の人々もだけど)。ミラが初めて敵を殺すシーン(半ば成り行き)の怯えにきちんと尺が取られた上で、彼女が次に意志を持って敵を斬り倒すシーンが強調される演出が、殺陣に命のやりとりとしての奥行きを与えていると思った。あと姉妹の剣術稽古と幼少時の姉妹が一緒に遊ぶシーンが舞台上下で並列に進むの、もう戻れない平和な過去と、それでも今を2人で生きるという決意が見えてとても好きな見せ方だ。


エラの三田さん、48系列にいた子だよな…?(NMBでした)という知識しかなかったが、妹がすごくハマり役だった。この笑顔のためならがんばっちゃうだろうなというほわーんとした笑顔をしている。側近VSエラのとき、側近が兵士たちに倒れたエラを殺せって命令するけど、それがエラがかつて戦場で助けた新人兵士たちだから動けないシーンすごくいい。


女官3人組、それぞれ戦い方に個性があってかわいい。キャラ立ちがおジャ魔女どれみみたいだ。はづきちゃんみたいなメガネの子がいちばんビビりなのに、いちばん土壇場で頑張るのがいい。


牧田さんの王は、殺陣はめちゃくちゃうまいというわけではないと思うんだけど(スピード感や足捌きなど)それが逆に王の余裕って感じでよかった。顔が整っているので人を蹴り倒すとき薄く笑う表情が憎たらしすぎる。あとみんな笑ってるときに無表情なの目の奥に闇を感じる。ミラのことは妻として見てたわけじゃないと思うんだけど、恋愛になったら絶対モラハラ野郎な感じがする。とにかく人格が最悪(褒めてます、役なので)


竹村さんの騎士団長は、最初に出てきて側近とすれ違うとき、無頼で男くさい感じがビシッと決めてる側近との対比でまず良く、ぶっきらぼうなタイプかと思ったらやる気のある姉妹を鍛えてくれるし結構楽しそうで、笑うと急にかわいい。最後顔を斬られた後戦えなくなってしまっているミラをいつものようにどつかず、頭を撫でて勝ち目のない戦いに向かっていくとこでさすがに泣いた。なんであんな人格最悪王に仕えてるんだろと思ったので勝手に考えたけど、代々騎士の家柄で、人望のあった父王(故人)の元で前騎士団長を務めた父親(故人)からお前もあの王子の剣となれ!みたいな教育を受けて育ったのが呪いになってるとかだといいな。妄想です。殺陣でスライディングするんだけど、強くなった後のミラも同じスライディングをするので、師弟〜!と思った。


そして熊倉さんの側近がマジでヤバい。見ながらこんなの狂う!!全オタクが好きだろ!!と思った。殺陣の途中で口元を手で拭うのも、部下に向けて「殺れ」って首をかっ切るジェスチャーするのも、部下が従わないから女の顔を殴りまくるサドっぷりも、爬虫類っぽい冷たい目つきも、セクシーとしか言いようがない手招きも流し目も全部最高、そして殺陣がタイトでものすごい爆速!過去見た人でいちばん速いかもくらい速い。剣グルグルって回すとこ(説明ができん)信じられんかっこよさだった。一個だけ文句言うなら側近は後半しか殺陣がないんだけど、騎士団長VS側近もっと長尺で見たかった!!あとカテコで明日以降の宣伝をしてたとき突然土下座したりエゴサのマイムしてておもしろの波動を感じて驚いた。かわいさもあるんですか??怖い!!沼を感じる!!


真面目な話、これは前に演者が延々走り続ける駅伝の舞台を観たときにも思ったことなんだけど、演者がめちゃくちゃ身体的にハードなことをやっていると、本人のしんどさが役としてのしんどさと混じり合ってそこにリアリティが立ち上がってくる。もちろん身体は替えがきかないので細心の注意を払ってなされるべき演出だとは思うが、個人的にそういう手触りには抗えない魅力を感じる。マジですごい。汗をかいた分だけ生まれる説得力がある。


あとわたしはここ7年くらい梅棒をゆるく追っていて、壱劇屋って梅棒と客層が被ってる気配を感じてたんだけど、今回観てかなり納得した。使うスキルがダンスか殺陣かの違い、物語の作風の違い(梅棒はよりポップなので)はあるが、台詞がないぶんそれ以外の全て(マイムや表情)に情報をこめまくるのが共通している。村でのシーンとか同時にいろんなことが起きてて見切れない。人間って情報量多いんだなと思う。


最初に殺される敵将などをやってた、髪長めの背が高い顔がはっきりしたモブの人がすごい殺陣良かったんですけど、劇団HPに写真がなくてわからないので有識者の方がいたら教えてください!→小林嵩平さんでした!有識者の方ありがとうございました!

あと小柄な少年みたいな人(妹に助けられる兵士の片割れ)も村のシーンからかわいかったな。→酒井翔悟さんでした!


とにかく体験としてめちゃくちゃ良かったです。浴びた!という感じ。5作品連作らしいので2作目以降も観に行こうと思う。あと何とか予定の都合をつけて側近をもう一回観たい気持ちがある。欲望に忠実に生きたい。

ガムテープのこちらとむこう

やしゃご「きゃんと、すたんどみー、なう。」タカハ劇団を観る予定があり、セット券がお得だったのでせっかくならと思って観た。結果タカハ劇団は全公演中止になってしまったのですが…公演が観られるだけで幸運なご時世になってきているなと思う。


長女が知的障害者の三姉妹が暮らす家が舞台。次女が結婚して引っ越すことになったが、引っ越しの日に長女が暴れたことから、次女の配偶者、三女の友人、長女の施設の職員、同じく知的障害を持つ恋人、次女夫妻の引っ越しを頼まれた業者、次女の夫の教え子らが物語を繰り広げる。

次女が家を離れることになると三女が長女の世話をすることになるのは明らかで、それについて互いにかすかなわだかまりが感じられる。そんなとき長女のもとを授産施設で出会った恋人が訪ねてきて、ふたりは結婚すると言う。暮らしていけない、無理だと止める周囲と、それに積年の苛立ちを爆発させる長女。一悶着の末恋人は帰っていき、後味の悪い空気の中、三女は死んだ母の幻覚と話し「自由に生きてほしい」と言われる。そして三女は長女の結婚に賛成すると決断するが、そこに次女の配偶者から、帰る途中で恋人が車にはねられたという電話がある。最後は恋人に会いに行くために化粧をねだる長女に次女が化粧を施すシーンでそのまま終わる。


「きょうだい児」がテーマと聞いていたのでもっと終始深刻なトーンの話かと思っていたけど、中盤までかなりドタバタの部分があり観る側としては正直少し安心した。特に引越し業者社長役の佐藤滋さんがめちゃくちゃおもしろい。嫌な感じのないおもしろさ。あの家の外の人間だからこその清涼剤になっている。八つ当たりするシーンも子供みたい。家族つらい系演劇が苦手なので身構えていたが、巻き込まれた引越し業者たちとかエキセントリックな友人のウサギとかピースケの要素とかがフィクション性になっているせいか入り込みやすかった。でも決して軽い話ではない。

これは主観なので正しい見方だとも思わないんだけど、わたしは劇中で大越が「普通って何?」と語るくだりには全く同意できなくて、対立におくのが正しいのかもわからないが綿引の意見に同意していた。「ガムテープくらいの太さの線」は現実に存在するし、だからこそ月遥と花純は苦しむ(という言葉選びでいいのかわからないが少なくとも何かしらの痛みを抱える)ことになったのだと思っている。正志が事故に遭った知らせの後、最後に花純がピースケの卵を落として割ろうとするシーンもその現れだと思う。でも大越がこういう男でなかったらおそらく月遥にプロポーズすることもなかったわけで、同時に綿引は由香里が雪乃と正志の関係性について、あのタイミングでは空気を読めないとも言えるような吐露を漏らしたことをきっかけに彼女との未来を考え始めた(とわたしは解釈した)ので、大越や由香里のような意見が世界をよくすることも事実だと思う。理想と現実の擦り合わせと言ってしまうとめちゃくちゃ陳腐だが…。そしてラストのあの場面では月遥が卵をギリギリ受け止める。線はあるけれど、その線で全てが分断されるわけではない。

また、花澄にしか見えない母は当パンにも記載がある通り、霊ではなく花純の幻覚なのだと思う。これは母が月遥の言葉にはちゃんと返事をせず、花純としか話さないため。だから花純は自分自身との対話で自由に生きてと言われて、それをふまえて雪乃の結婚に賛成するのだと思うと何とも言えない気持ちになる。それが花純の思う自由だととらえていいのか?


古い日本家屋の一室を再現したセットに開場中からもう役者がいて演技が始まっていて、終演アナウンスも役者が残ったまま行われる演出が、物語に明確な始まりと終わりの切れ目を感じさせなくて面白い。上演されるのではなく(されてるんだけど)そこに物語が置いてあるという感じだ。セットの細かいところのリアリティ(固定電話って下にああいうよくわかんないレースの布敷いてあるよな…とか)がとても良い。あと最初は蝉の声と夏の日差しっぽい明るさで、展開に集中しているうちにだんだん暗くなっていき、劇中で部屋の電気をつけたときに初めて暗さに気づいて、これも現実でよくあるやつだと思った。演劇史とか何も詳しくないんだけど、青年団平田オリザさんだから現代口語演劇でそれがあの現実の会話みたいに被りまくる台詞回しということであってますか?台本を買ったらどのくらい被らせるかや間を開けるかまで徹底的に指定されていて驚いた。

2.5における作品と作風の親和性

舞台「文豪ストレイドッグス STORM BRINGER」推し(磯野大さん)が出たので観に行った。過去シリーズは未見(絶対観た方がいいんだろうなと思いつつ全然時間がなかった)めちゃくちゃにネタバレしています。


今回がシリーズ7作目らしい。文豪異能バトル(?)という情報だけで行ったけど、登場人物がセリフで過去の因縁とかを説明してくれるので、今作から突然観ても最低限はついていける作りになっているのはありがたい。とはいえ後半は前作を見てないとさすがに初見ではわからない部分があり(ランドウって誰なの?と思ってアニメの公式見たらめちゃくちゃ好みのキャラデザの男が出てきた。多分少なくとも一作前の舞台は観た方がよかった)どうすることもできなかったけど、とりあえずざっくりしたあらすじ。理解が間違ってたらすみません。

異能と呼ばれる超能力みたいなものがある世界観で、舞台は架空の横浜。主人公・中原中也は、8歳より前の記憶がなく、自分の生まれに謎とコンプレックスを抱えている。生まれの秘密を知るためにポートマフィアとして働く中也のもとに、フランス人の暗殺王・ヴェルレエヌがやってきて、俺たちは兄弟だから一緒に旅に出ようと言う。実の兄弟ってわけじゃないんだけど、ふたりとも異能を制御するために作られた人工生命体だ(とヴェルレエヌは思っている)から中也を弟としているぽい。造られた命であることから、生まれてきたくなんてなかった!ととにかく生に苦しみを感じているヴェルレエヌは、その孤独を共有できる存在として中也を求めている。ここの「同じ孤独を持って並び飛ぶ彗星」みたいな台詞がすごくよかったな。

一方イギリスから来た刑事ロボ・アダムはヴェルレエヌを捕まえるために中也に協力を求める。最初はマフィアだから断られるんだけど、ヴェルレエヌが中也を自分のもとに来させるために中也の周りの人間を皆殺しにするというめちゃくちゃな計画を始めて、マフィアの仲間が殺されたので敵討ちのため手を組むことになる。ヤンデレなお兄ちゃんに死ぬほど愛されて眠れないってやつだ。

アダムと中也は次のターゲットになると思われた白瀬という少年(幼い頃に中也を助け、その後因縁がある)のもとに行くが、色々あって警察に逮捕され、警察で中也に更生するよう働きかけていたいい感じの刑事もヴェルレエヌに殺される。ヴェルレエヌを捕まえるための罠をはろうと、中也やヴェルレエヌの出生の秘密を握るNという科学者(刑事の兄)を訪ねるが、中也はNにはめられて一度監禁される。Nは中也から異能を引き剥がそうとして拷問にかける。ヴェルレエヌが中也を助け出すが、中也は同行を拒否し再度中也VSヴェルレエヌになる。実は中也の仲間であるマフィアの太宰治が、マフィアのボス・森鴎外の暗殺を防ぐために色々な情報を流してヴェルレエヌを操り、その間に彼を倒す準備を整えていた。追い詰められたヴェルレエヌは能力を解放して戦うが、中也とアダムが連携してそれを一旦は倒す。

最終的にヴェルレエヌを弟の仇と憎んだNが能力を暴走させる奥の手を使い、ヴェルレエヌは魔獣ギーヴルになり、アダムがそれを止めるために自爆。このアダムが自爆するくだり、腕を遠くに投げるのまで含めてベイマックスをめちゃくちゃ思い出した(そのあと腕に残ってたバックアップで復活するところも)でも止まらず、中也は自分が人間かどうか判定するための痕跡が消えてしまうという条件を受け入れ自分の中の異能を解放して魔獣を倒し、ヴェルレエヌは一度死ぬけど亡くなったかつての相棒が残した異能の力で生き延びる。

総合して、自分の生まれにとらわれ、自分は何者なのか?と苦悩していた中也が、事件を通じて自分が仲間に恵まれていること、ポートマフィアという居場所を見つけ、確固たる自我を築く話なんだと思う。今回本編が終わった後で日替わりのちょっとしたお芝居があり(あれも中屋敷さんが書いてるのだろうか)これも楽しみにしてたんだけど、千秋楽での中也が観客に語りかけるセリフがまさに主題だった。

アルバトロスの死に際とかアダムと中也の別れとか、ぐっとくるものがあった。あと、ヴェルレイヌが「シートベルトしろ、舌を噛むぞ」「軽いな、ちゃんと食ってるのか?」「自分の血を見るのは久しぶりだ」など、フィクションではめちゃくちゃ聞き覚えがあるけど現実では絶対に聞くことのない台詞をどんどん繰り出してくるのが面白かった。

中也もヴェルレエヌも重力を操る能力なので、プロジェクションマッピングとかで戦いを表現し、最終的にはフライングする。といってもジャニワみたいに飛び回るわけではなく吊り上げられるくらい(回転はしてた)だけど、後ろに羽や効果を投影するのはかっこいい!あと、ラストシーンの後にテーマソング?が流れキャラクターが順番に出て踊るのが、ストーリー展開に沿った形になっていてアニメのエンディングみたいで感情が揺さぶられる。1番で劇中殺された仲間たち(旗会)と踊った後、皆がはけて1サビ終わりでひとり残される中也の表情がすごくよかった。


総合して、2.5の場合は原作を履修していないと作品の良し悪しについては何とも言えないし言うべきでもないかなと思うので、演者の演技について。主演の植田さんは生で見たの初めてだけど、もう30代のはずなのにめちゃくちゃ少年ですごくいい。台詞も全部聞きやすいし、素直じゃないかわいさが滲み出てる。スキルがすごい。白瀬役の伊崎さんも、まず声質がよく通るし滑舌も良く、白瀬のときは等身大のちょっと未熟な少年で、アルバトロスとの兼ね役がしっかりまるで別人に見えて良い。獅子王の子だよね?演技上手いんですね。ヴェルレエヌの佐々木さんはさすがの貫禄がある。太宰の田淵さんとNの久保田さんが初日はちょっと滑舌と台詞が危ういなと感じるところが多くて、Nとか特に言いづらそうな台詞多いし大変だとは思うんだけど、キャラの性質(狂気系)ゆえに噛んだり詰まったりすると観ている側としては冷めてしまうので、頑張ってくれ…と思っていたが、楽ではほぼ完璧になっていたのでよかった。森鴎外の根本さんは飄々としたかわいさがあって、日替わりの心臓も強いし、説明台詞も多いけど聞きやすかった。あと個人的に加藤ひろたかさん(ピアノマン、村瀬刑事、広津柳浪の3役)がめちゃくちゃよかった!!役の演じ分け、スポットが当たらない瞬間でも気を抜かない細かい演技、爆速長台詞の迫力、日替わりの遊び心…あと顔がすごくかわいい。


ここから推しを褒め称えるブロックになります。推しはユーロポールから来たロボ刑事のアダム・フランケンシュタインという役なんだけど、初日からほぼ完璧な演技で、マジで何も不安がない!!と思った。明瞭なセリフ(ロボだから絶対噛んだり詰まったりできないと思うんだけど、わたしが見た6公演では1箇所「重要人物暗殺」の「暗殺」を抜かしただけでほぼずっと完璧だった)、細かなリアクションや移動でも油断しないロボらしさ(特に他のキャストが移動するときそれを追う首の動きが一定の速さで滑らかでピタッと止まるのと、まばたきの少なさと、無表情で首を傾げる反応と、打撃を受けたときの痛みは全く感じなくて衝撃だけが跳ね返る感じのリアクションと、T-1000みたいな走り方)、でも同時に最先端のロボだから感情模倣モジュールがあって、それによる言葉が時に人間より人間らしい。中也のことで白瀬にブチ切れるシーン、あれは全てを知っていて言えるアダムだからこそできることですごく清々しい、人のために怒れるロボなんだよな…全体的に太宰と中也は元々シリーズ内で犬猿バディなんだろうと思うんだけど、同時にアダムと中也がバディになっていく話でもあって、それがめちゃくちゃかわいくて胸熱でよかった。


見せ方としては、アンサンブルが6人みなさん踊れたり身体がきく方々で、パーツの小道具(車のハンドルとか、ビリヤードのシーンでは球の被り物とか)とアンサンブルの動きだけでシーンを成立させるところが結構多く、それがおもしろかったな。舞台上は半分くらいから階段になっていて、突き当たりは開閉するのでそこから飛び降りたり階段ではけることもできる。特にセットはなくてシンプルなので映像も映せる。全部が原稿用紙の柄になっている。


今回初めて自作を見たことある演出家の2.5を見たので、作風みたいなものを感じられる気がして興味深かった。言ってもわたしは柿はまだ前回の「空鉄砲」とDVDで「美少年」しか見れてないド新規なんですが、シンプルな舞台、一瞬だけパッと当たるスポットでの見せ場、素早い場面転換、爆速長台詞の台詞回しなどに共通点を感じた。あと文ステって1作目から全部中屋敷さんが手がけてるんだけど、なんとなくその理由がわかるような気がした。男男巨大感情話だし、世界観的にも難しい単語の長い説明が多くなるので、登場人物が言葉の圧をぶつけてくる柿喰う客の作風につながるのかもしれない…と思った。2.5の演出を誰に頼むかって、そういう原作世界観との親和性みたいなものをプロデューサーが見極めて決めるのかな。その仕事楽しそうだな。当たらなかったら怖いけど。

悲劇でも喜劇でもない険しさ

singing dog「Drunk」感想。井内さんのファンなのと、singing dogのアルコール依存症を扱った過去作「ブラックアウト」が好きだったので観に行った。


バー「Perfect Day」に夜な夜な集う常連たちの大半はアル中。開き直ってアルコール病棟を出たり入ったりしている上野、看護師の彼女と同棲している田端、リサイクルショップに勤める神田、2人の子持ちの既婚初老リーマン大塚、外資系リーマンの目黒、フリーターの馬場。田端は彼女、大塚は妻から酒をやめる・減らすように再三言われ続けているが、田端はやめようという気がなく、大塚は一度スリップ(断酒からまた酒を飲んでしまうこと)して以来やめられずにいる。


今回楢原さん演じるバーのマスターが狂言回し的な役目で、そこここで独白しながら話が進む。このマスターがすごく人間で、個人的にとても好きな役だった。まず常連客がアル中なのをわかりながら求められれば酒を出し続けているので、最初は極悪な人間なのかなと思うが、やがてマスターもアル中だということがわかる。酒を背負うのが十字架というセリフにもあるように、マスター自身自分への戒めとして酒に最も近いところに身を置いているし、序盤の「光に集まる蛾みたい」というセリフも自嘲を含んでいるということがわかる。そして後半アル中の症状がかなり極まってきている神田に、マスターは、客にこういうことはあんまり言わないんだけど病院に行こう、と言う。妻や彼女が酒を止めるように働きかけてくれる大塚や田端と違い、神田は完全にひとりぼっちであることが劇中で示されていて、それを知っているマスターはだからこそ神田に声をかけた。この場面で孤独を吐露する神田と、それに向き合うマスターがよかった。マスター自身、父親と叔父が共にアル中で亡くなり孤独な中で、適切な治療を受けアル中から回復して10年飲んでいないという経緯があるから、ここで神田にかける言葉が上っ面にならない。


でも神田はマスターがその場を離れた隙に逃げ、側溝で溺れて亡くなる。次の場面は神田の葬式の後。神田を疎んでいた弟夫婦から嫌がられながらも火葬場まで付き添ったマスターは、店に戻ったとき大塚の妻がお清めの塩を撒くのを断る。葬式帰りに塩を撒くのって、身内の場合はやらないはずだから、マスターが神田を家族だと思っているということなのかな。その後マスターは全部の酒をカウンターから出し、この店を畳むと言って神田に話しかけながら酒を飲み始める。このシーンがマスターの自傷行為に見えて痛々しかった。酒に逃げているというよりも(それもあるんだけど)神田を救えなかった報いとして自分が最もひどいことになる選択肢を選んでいると感じた。


前半に生前の神田がカラオケの持ち歌として平井堅の「ノンフィクション」を歌うくだりがあり、悲しむ面々は酒を飲みながら合唱する。ただここ、劇的ではあるけどこのままいくと何も解決しないんだよな…ともやもやした気持ちでいたら、下戸である田端の彼女がいつまでやるの!とキレて自ら強い酒を口にし、急性アルコール中毒で運ばれる。ここ、直接的に関係ない目黒や馬場が心配して素早く動き、泥酔しながらも追いかけようとする田端に上野が手を貸すのが良かった。アル中たちはアル中だけど人間的には極悪人というわけではないし、同病相哀れむというやつかもしれないが互いに助け合ってはいるんだよな(馬場に酒をすすめる上野のように足を引っ張る瞬間もあるが…)目黒と上野も、外資系リーマンで常連たちを内心見下すことで精神の安定を保とうとしている目黒(アル中だと認めない)と、それを看破してキレる上野というやりとりがあり、でも深夜に店で寝ていた目黒が幻覚を見て暴れるとき上野はそれを助けようとする。上野は口では酒は最高だから絶対やめないというけど、実際病棟に出たり入ったりしていることからわかるように酒をやめたい気持ちがないわけではなく、その狭間で苦しんでいるが、人に苦しさを見せて哀れまれたくないという見栄が強いように思う。あと上野が暴れるシーン、最大限にリアリティと迫力を出しながら暴れをコントロールしていると感じて良かった。


事件は起きるんだけどそこに過剰な物語付けがないというか、悲劇でも喜劇でもなく起きたことを描くというフラットな印象を受ける。一方でアル中の面々に向ける視線が、決して甘くはないけど突き離さない優しさを持っているのがいいなと思う。正直自分は酒が飲めないので、「ブラックアウト」を見るまでは依存症っていうけど気持ちの問題であって自分でやめられるだろ、甘えだと思っていた部分があった。しかし「ブラックアウト」でも今作でも、依存症は病気であり適切な治療が必要なこと、なおかつ酒の情報があふれるこの世界で、2度とスリップせずに生きていくのがいかに難しいかということが描かれ、そう言われてみると自分が抱くアル中に対する意識に暴力性があることを自覚した。確かセリフにもあるけど、酒をやめる脳の回路が焼き切れちゃってるんだよな。それって不可逆だから、一度アル中になったら一生酒を断つことでしか克服できない。恐ろしいことだ。


アル中が全員男性でそれに翻弄されるのが女性という構造にはちょっと古さも感じたが、調べたらアル中人口の男女比って9:1くらいらしいから、現実に即して描くとそうなるのかもしれない。アル中の彼らにはそれぞれそうなってしまった理由がある。神田は弟との軋轢と孤独、大塚は職場の避けられない接待、目黒はハードな仕事のストレス、マスターは環境と遺伝。これからの日本ではどうなるのかわからないけど、現状の日本だと男性性に紐つく理由が多いのかもしれない。馬場と上野と田端の背景は描かれないが、必ずしも皆が皆はっきり理由づけられるものがあるとは限らないだろうからそれもいいと思った。田端役の吉田さん、「ブラックアウト」ではニコニコしながらとにかく人に酒を飲ませようとする優しい悪魔みたいな役で怖かったんだけど、今作はもっと等身大の人間というか、ヘラヘラしたどうしようもないクズという感じでこれも好きだったな。あと手足がめちゃくちゃ細長くないですか?漫画のルパンみたいなシルエットをしている。


井内さんの馬場は、中盤で自助グループの先輩がスリップしてひどい亡くなり方をしたことから断酒と就職を決意する。上野や田端たちに酒を勧められても頑として断り続け、最後には入院したマスターの代わりに店を一旦引き継ぐ。最後のシーンでバーカンに立ち、上野と目黒に酒を出しながらスポットが当たる馬場の不穏な表情こそが、断酒を続けることの険しい道のりを示している。せりふにある通り、今日は飲まなかった、の積み重ねなんだな。あとツーブロックがとてもいいですね(よこしまな感想)


演劇ならでは、と感じる見立てのような演出はあんまりなくて、このままドラマにもできそうだなと思う(良い悪いではなく)。舞台はバーのワンシチュエーションなので転換がないのは好きだ。あと音楽が劇伴みたいで、主張しすぎないのに確かに存在しているのが良い。

三越劇場は最高

「The Great Gatsby In Tokyo」村田充さんが好きな気がしているので観に行った。


三越劇場、多分初めて行ったんだけどすごい豪華な空間だった。帝劇をぎゅっとしたみたい。舞台も広いし見やすい。入場からスタッフさんに「ギャツビー邸へようこそ」と声をかけられ、席に着くと舞台上では屋敷の使用人役のキャストたちがパーティーの準備を始めながら前説をしている。観客もパーティーの参加者という設定で物語に入り込んでいく。三越劇場という空間の強みをよく生かした演出だと思う。


狂言回しにあたるニックが、近所に住む謎の大金持ち・ギャツビー邸で毎週末行われるパーティーに参加したことから物語が始まる。大金持ちで貴族の生まれと噂されているギャツビーは魅力的な男で、ニックを親しげに友と呼びランチに招待する。実は彼にはある狙いがあった。ギャツビーは5年前にニックの従妹のデイジーと留学先で知り合い交際していたが、その後姿を消し、デイジー鉄道王の御曹司・トムと結婚。しかしトムは女癖が悪く不倫を繰り返し、現在進行形で自動車修理工ウィルソンの妻であるマートルと大っぴらに関係を続けている。ギャツビーはデイジーを取り戻すために彼女を追って東京にやってきて、いつか彼女が訪れることを願ってパーティーを開催していた。偶然を装った再会のセッティングを頼まれたニックは、トムに苦しめられるデイジーを哀れに思っていたこともあり協力。ふたりはヨリを戻して関係を持ち、トムを交えた別れ話が行われる。しかし密かにギャツビーの身元を調べさせていたトムが、彼の生まれが貴族ではなく、仕事も怪しげな不動産詐欺だと暴露。動転したデイジーは部屋を飛び出していき、追いかけるギャツビー。同時にその頃マートルとウィルソンは別れ話で言い争い、道路に飛び出したマートルをギャツビーの車がはねてマートルは即死する。運転していたのはデイジーだったが、トムが言葉巧みに浮気の件含めてギャツビーに罪を着せ、ギャツビーを邪魔に思っていた育ての親(マフィア?)ウルフシャイムの教唆もあり、ウィルソンがギャツビーを撃ち殺し自殺。ニックは東京を離れることを決める。


私は原作を知らないんだけど、舞台が1920年代のアメリカから現代の東京になっているだけで、おそらくストーリーについて原作から大きな改変はないんだと思う。それゆえにかなり違和感がある。東京が舞台なのに日本人がひとりも登場しないのも(まあそれはそういうコミュニティだとすればなんとか…)、現代なのにスマートフォンがあまり登場せず全てを固定電話でやりとりするのも(LINEして、みたいなセリフはあるけど)、そもそも登場人物の性格も…マートルとデイジーについて特にそれが顕著で、マートルについては豊かな生活をしたいなら自分で稼ぐべきだし、デイジーについては令和の時代にあの自我のなさはヤバい。舞台を現代にしたことによって、そのあたりの感情移入できなさが際立ってしまっていると感じる。


一言で言うと胸糞な話なのでどうしてこんなに人気なのかよくわからないんだけど、人は胸糞が好きってことなのかな。とにかく全員どうしようもない中でニックだけがまだちゃんとしてる。時代のギャップが大きいんだろうけどロミジュリに対して感じるような、なんでそうなる?という感覚がすごい。まずギャツビーは消える前に事情をデイジーに説明するべきだし、自分の生まれなどの説明をしたら彼女が離れると思うならどっちにしろ早晩うまくいかなくなるのは目に見えてる、トムはマジで有害な男らしさを煮詰めたみたいな男で最悪にキモい、自分の浮気を正当化するならデイジーの浮気も認めろと思うし、マートルはとにかく働けと思うし、デイジーは浮気されて辛いと言いつつトムと結婚したのは金があったからだろと思うと自業自得ではという気もするし…全員無理なんだよな…というかこの話でいちばんよくわからないのは、ギャツビーがここまで人生を注ぎ込むほどの魅力がデイジーに全く感じられないことで(これは演者さんがどうこうではなく、そもそもの物語に対して思う)こんな悲劇のヒロインぶるだけの女の何がそんなによかったの?女の趣味悪すぎない?と思うんだけど、一方でギャツビーはデイジーの意志を無視して話を進めようとするくだりもあったりして本当に好きなの?とも思う、そもそも自分の生まれに強烈なコンプレックスを感じていたであろうギャツビー的には、デイジーの薄っぺらさや残酷さこそが「良家の娘」としてのブランドに感じたのかな…嫌な話だ…。


村田充さんは背が高くスタイルが良く顔が強いのでとんでもない派手な柄スーツもよく似合っていたし、あと歌がうまいということを初めて知った。ニックの黒木さんも地に足のついた堅実さとかわいさが感じられて良かった。執事のハーツォグ、マイクパフォーマンスうまくてウケた。「グラスは落とさないが女は落とす!」好き。あとパーティーの場面でキャストの歌とダンスがあって、冒頭に招待客のロキシーが1曲歌うんだけど引くほどうまかった。カラオケバトルの人なのか。バーテンダーがシェイカーで机を叩く音を会話の中の発砲音に重ねたりとか、ラブシーンで照明を全部落として演者が操作するベッドサイドランプの灯りだけにしたりとか、細かいところがおもしろかった。ただシェイカーの音がでかいのでセリフと被るとやや聞き取りづらい。

中盤、デイジーとギャツビーが再会する場面は完全に笑いに振っていて、挙動不審なギャツビーはかわいかったが、舞台上に客からの祝い花を出して宛名を紹介する演出は個人的にはちょっと受け付けなかった、ロビーまでは全然いいと思うんだけど。


とにかくなんで舞台を現代の東京にしたんだろうということに尽きる。別に原作設定のままでもギャツビー邸に来た気持ちになることはできると思うんだけど…逆に東京にするならもっと大胆に翻案したらよかったのでは…でも衣装がかわいいしダンスも楽しくて舞台は派手だし、ギリ観て損ではなかったかなという感想。