言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

板の上の嘘を真実にする力

シラノ・ド・ベルジュラック」感想。友達が古川さんを推しているので一度観てみたいと思っていたら、谷さんが訳・演出と聞いて観に行くことにした。わたしはこの作品好きだし、小劇場好きな人は好きなんじゃないかなと思う。普段ミュージカルメインで見てる人はどう感じるんだろうな。

 

階段状のセットというか足場って感じ。段数が多くて各段に奥行きがなく、舞台公演のくだりなど上と下に分かれて双方客席側を向くことで向き合っていることにする「演劇の嘘」で成り立つシーンがみられる(これ蟹工船稽古初日で腹筋さんが言ってた表現でなるほどな〜と思った) 奥行きがないから大きな動きはできず(横移動が主)必然的に言葉の重要性が増していると感じた。

全体的に灰色く硬質なセットと、ビジュアルにもあった白い棒状の照明、くすんだ色合いにストリート感のある衣装で近未来ディストピアみがあるが、設定としてはあくまで17世紀なので、いつぞやか観た近未来ロミジュリとは違う。

前提としてロンドン版は観ていないので、どこまでがロンドン版と同じ演出でどこからが日本オリジナルなのかはわからない。でも別にそれは本質ではないと思う。

冒頭、演者がぞろぞろ入ってきて、 ここは劇場で、これから観客を演じます、というようなセリフから開幕。大鶴さん演じる詩人リニエールがラップで登場人物を紹介していく。このあたりの序盤、セリフがかなり聞き取りにくく(演者の滑舌ではなく、音がわーんと響く感じに聞こえたから音響じゃないかと思う)言葉数が多いしセリフが速いので、ずっとこのままだったらどうしよう、と焦ったけど、途中から気にならなくなったな。あと音が微妙な中でも銀粉蝶さんの歌はよかった。

 

ストーリーについて。自分も外見コンプが長年かなりひどかったタイプなので、シラノに共感する気持ちは大きい。自分は人間の外見に1ミリも関心のない男性と結婚したことでかなり精神的に解放されたが(これも他者に依っている面があるので完全に健全とは思わないが)、独身時代に観ていたらもっと心を抉られてたかもしれない。ロクサーヌに呼び出され、舞い上がってレイラの店に行ったシラノが、クリスチャンとの仲を取り持ってほしいと言われるシーン、めちゃめちゃキツい。道化を演じながら、貼り付けた笑顔やまばたきで内面の苦しみを表現する古川さん、すごくよかったな。古川さんは初めて生で見たんだけど、本当にびっくりするほど造形が美しく、しかし美しい人が特に何のメイクもなしに醜いとされる役を演じていることの違和感を全く感じさせない演技だった、板の上の嘘を真実にする力がある。目を瞑ったロクサーヌに訥々と想いを語るシーンも圧倒された。宇宙人のふりをしてド・ギッシュとやりとりするシーンも好き。

脱線するけどSNSで見た、顔が美しい人間が醜い設定の役を演じるのは説得力がない/違和感という意見が全くわからなくて、じゃあ逆に普通の外見の人間は絶世の美男子を演じられないのか?そんなわけなくない?演劇は見立てであって、現実の視覚情報がそうでなくても舞台上ではそうであることにできる(だから何でもできる)ということが面白さのひとつだと思うし、それを納得させる演技だったと思う。また付け鼻をしないことで、「鼻が大きい」というシラノのコンプレックスは文字通りのそれだけではなく、観客があらゆるコンプレックスに置き換えてとらえやすくなっていると思った。

ロクサーヌは最初ド・ギッシュへの態度がパパ活女みたいで苦手かもしれない…と思っていたが、ありすぎるくらい己のある女性だということがわかってきて、だんだん大丈夫になった。特に神父を言いくるめてクリスチャンと結婚するくだり、自分の欲しいものは自分で手に入れるという姿勢がよかった。残酷ではあるが…ロクサーヌのシラノへの態度って、好意の可能性を感じながらも恋愛対象外だから先に一線を引いて利用しているようにも、シラノが自分を好きだなんて全く思ってもいないようにもとれる。さらに言うと後者だとして、その理由も釣り合わないからありえないと無意識に見下しているのか、幼馴染でいとこだから念頭に無いのか、どちらもありうるけど、今回は最後まで観た結論として、本当に悪気なく考えにない(「キスしてあげる」も悪意のない軽口)という印象を受けた。特に15年後のシーンでシラノにも女性関係がある想定の発言をするのと、最後の本当に剣を持って駆け回ってたのは僕じゃなくて彼女なんだ、というくだりでそう感じたな。ロクサーヌは刺されてるシラノの顔色を見てもまるで的外れなことを言うし、本当に恋愛的な視点で彼に興味がない。それはそれで残酷だけど。

あと死ぬ前のクリスチャンが本当につらい。クリスチャンにはクリスチャンの内面がちゃんとあるのにそれを示すとロクサーヌには全然相手にしてもらえず、それでも彼女が自分の外見に一目惚れしたことを支えにしてたろうに、外見なんてどうでもいいと言われる。自分のことを好きだと言う恋人が本当の自分のことは何も知らずに否定してくるの、ぞっとするな。もちろんクリスチャンはそのリスク込みでシラノとの計画に乗ったわけで、全く無辜ではないんですけど。これはメタすぎてよくない気もするが、浜中さんが偶像の極北であるところのジャニーズなのもちょっと怖く思えてしまった。あとクリスチャンとして喋るときシラノが関西弁だったのは浜中さんが関西人だから?だとしたら中の人の情報を知らないと意味不明になっちゃうのはちょっと微妙な気がする。

その他のキャストも全体的によくて、中でもレイラ役の銀粉蝶さん、特に2幕の詩の朗読は、何がどう良い、という具体的な言語化は難しいんだけど、朗読を聞いて心を打たれる兵士たちのリアクションがすっと心に入ってくるだけの説得力があった。函波窓さんが出るって知ってそれも楽しみにしてて、二幕の戦場でのギリギリな演技すごくよかったな。

 

17世紀が舞台だけど現代でも当てはまる問題や感情が描かれてて、古典の強さと訳や演出の妙を同時に感じる。ラップバトルもハカ?も歌も講談も落語も、言葉や声によるあらゆる表現を見せようとしてる感があって、舞台ってやっぱりどんなことでもできるからおもしろいな。

天井から伸びてる有線マイクにカメラがついていて、喋っている人間の顔を舞台後ろに映すようになっている。舞台上の情景を映像で映す演出は最近だとエリア51でも見たなと思い出して、でもあれは記録映像という設定があったのに対し、今回はどういう意図なのかわかりきれなくて気になった。あの距離に寄ると誰だろうと大した違いはなく近すぎてグロテスクに感じるので、外見の美醜はあっても人間の内面は皆多かれ少なかれ醜いということだろうか、と勝手に考えた。

古典って長く残ってるだけあって描かれてる内容に普遍性があるんだなあと思う。ルッキズムの問題、権力による表現への圧力、芸能におけるコネシステム、女性への性的搾取など、今でも通用する話ばかりだ。あと終盤の15年後、韻文が流行らなくなって散文の小説などが隆盛しているのをリニエールとレイラが嘆くけど、その400年後の現代は今度は本が読まれなくなってきているわけで、全ては繰り返すんだなと思う。

一個だけ、ド・ギッシュから枢機卿に詩を見せることを勧められるシラノが、ポリティカリーコレクトでない俺を無くしたら俺は俺じゃないみたいなことを言うシーン、おそらく昨今のキャンセルカルチャーに対する書き手の気持ちを代弁している部分が多少なりともあるのではないかと感じて、ただ「ポリコレ」の概念は今の日本だといわゆる「ポリコレ棒」みたいに悪意を持った誤用をされていることが多く、しかし本来politically correctという概念は個人の内心を否定するものではなく創作の成果物をよりよくブラッシュアップするためのツールであると思っているので、脊髄反射的な受け取られ方をしませんように…と思った。 英語での文脈があるとしたら違うのかもしれないが。

言語体系が違うのに翻訳で韻を踏むってすごく難しいのではと思うんだけど、めちゃくちゃ踏んでる上にしっかり刺さってくる台詞で、ここが良い!と思うところもたくさんあって、でも1回じゃ全部聞き取れなかったし覚えきれなかった。覚えてるところだとロクサーヌが戦場で「私に命令しないで、自分がどうするかは自分で決める」みたいに言うところ、もちろん状況的にはそれどころじゃないんだけど、彼女がどういう人間なのかがよくわかる台詞で好きだ。台本が読みたい!暗転なくキャストがみんな入ってきて始まるのはプレイハウスだけど小劇場みたいに思えた。

 

谷さんの作品はダルカラを2作観て3作目、毎回面白い!!と感じるのでたぶん好きなんだと思う。わかるとわからない、楽しいと驚きのバランスが自分に合っていると感じる。そりゃそうでしょうねって感じの予定調和をずっと見せられても飽きるし、逆に終始さっぱりわからん概念舞台でも嫌になってくるんだけど、大枠はわかると感じつつもあれは?これは?という疑問点がたくさんあって、でも考える手がかりもある感じだから、ボルダリングみたいだなと思う。