言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

わたしたちの脱げない仮面

エリア51「カモメ」感想。浅草九劇にて。

脚本演出の神保さんが作る作品に興味があったので観に行った。

チェーホフの「かもめ」を日本版「カモメ」に翻案して上映しようとしているカンパニーが舞台。 この団体の過去作は観たことがないけど、以前にも「かもめ」をさまざまな視点で再構築した公演をやっているらしく、おそらく公演間につながりがあるのだろうと思う。キャストは本人と近しい名前・設定の役者を演じながら劇中劇として「カモメ」を演じるが、これが演劇を上演しようとする劇作家と女優を中心にしたストーリーなので、二重の入れ子構造になっている(劇作家を演じようとしている役者を演じている)

 

1幕

開始の暗転はなく、役者が挨拶をしながら舞台上に出てきて開始。壁には、飛ぶカモメの形をした白い紙に稽古場のルールや気づきを書いた「かもめカード」なるものがたくさん貼られている。脚本家が演者としても舞台に上がり、かもめという作品自体が意志を持った存在である少女との会話によってメタ視点を示す。最初顔合わせのシーンでは脚本家が稽古場にいるが、その後少女との会話で「俺を稽古場から外に出そう」という台詞以降は出てこなくなる。つまり稽古場にいた脚本家は脚本家が作中に描いた登場人物であり、少女と会話していた脚本家とイコールではない。脚本家と少女が会話している外の世界(便宜上「作中の現実世界」と呼ぶ)、そこで書かれた台本が演じられる稽古場の世界、稽古場で演じられる「カモメ」の物語の世界、が入れ替わりながら進む。舞台稽古のように少女がパンと手を叩くことで場面が始まったり止まったりする。

稽古場に集まった役者たちはそれぞれに癖があり、個人的には誰も手放しには愛せないし、それぞれの狡さも見える。劇団員の宗ちゃんは煮え切らないしリーダーシップがとれないわりにプライドは高く思い詰めるタイプの人間で、人をテンプレ化することの暴力性を理解した上であえて言うなら、こういうサブカル系の男性めちゃくちゃいるよなと思ってしまう。主演女優で宗ちゃんと恋愛関係になるアンヨは新人で、後半失踪するまで万事に自分の意見がないし、演劇に夢を見ている。ワンコはこの中ではおそらくいちばん役者としての仕事が多く、まっすぐだがそれゆえに他者とぶつかることもある。いくみんは皆の緩衝材役になろうとするあまり事態をややこしくする。ゆうくんは女好きすぎると思う。おじいは自己肯定感が低いし、ガンちゃんはシンプルに性格が悪い(修羅場を面白がったりしているのでそう感じたんだけど、最後アンヨが戻ってきたとき急に善い人間に見えるので、これはちょっとよくわからない)夫人は古いやり方に縛られすぎている。おっちゃんは抽象的なことしか言わないし、シュウペイはこの舞台にかけているというわりに主体性に欠ける。もちろんそれぞれに良いところもあるんだけど。カンパニーはさまざまなトラブルや恋愛を含む人間関係のもつれから崩壊に向かい、1幕終盤で稽古がうまくいっていなかったアンヨが失踪し、追い詰められた宗ちゃんはリストカットをする。作品が喜劇にならないことを訴える少女に、脚本家に憑依したチェーホフはこの作品は失敗だと言う。少女は自らが稽古場の世界に入り、結末を変えることを決意する。

 

2幕

休憩中、舞台上で転換が行われているところに挨拶しながら少女が出てくる。ここからの少女は登場人物としてプロデューサーの役になる。プロデューサーが加わったことで一旦カンパニーは良い方向に進み始めたように見えるが、アンヨは戻らず、その中でどう上演を行うか悩む中でやはりカンパニーは混乱していく。ここ、誰も明確なリーダーシップをとらずにいるうちにいちばん任せちゃいけないメンバーに任せることになってカオス化していく感じが、今の日本みたいだな…とちょっと思った。あと、1幕が開いてすぐと2幕後半の二度、もう辞めたいと言うワンコをシュウペイが止める同じシーンがあるんだけど、最初はなぜそんなにシュウペイが止めるのかわからなくて、しかし2幕後半の時点では恋人同士であるふたりだがワンコのほうが役者として売れているということがわかるので、シュウペイの気持ちも理解できる。しかし役者同士のカップルってうまくいくのめっちゃ難しそう~という唐突に下世話な感想。

クライマックス、本番当日の朝にアンヨは戻って来て、カモメ劇中の女優が劇作家と再会し去るシーンを宗ちゃんと演じるが、シーン終わりで縄を持って裏に消えた宗ちゃんはそのまま首を吊って死ぬ。原案のかもめと同様、この作品世界においても劇作家の死は避けられなかった。同じ脚本に沿って上演され続ける演劇をループする世界ととらえるのは、以前観た東映シアタープロジェクトの「ID」でもあった発想だなと思って面白かった。アニメなどでループものという概念が浸透したから出てきた視点なのかなと思うんだけど、どうなんだろう。 昔にもあるのかな。

ラスト、少女の独白から、逆光で羽を広げて飛ぶかもめのような彼女のシルエットが壁に投影され、少女が手を叩き目覚まし時計は鳴り続けて終わる。観客は現実という舞台に戻っていく。この作品のテーマはペルソナだと脚本家の神保さんが当パンで書いていたけど、終盤演者と「カモメ」の登場人物が対話するシーンと、アンヨがSNSでの誹謗中傷について「傷つくには傷つきますけど、仮面の下の自分は傷つけられないんです」と語るシーン、そしてラストで直球ストレートにそれを感じた。宗ちゃんの独白にもある通り、社会的動物である我々は他者との関係の中で常に自分自身を演じて生きているともいえる。学校、職場、家族、趣味のつながりなど、属する集団や対する相手を問わず完全に同じ振る舞いをする人は少ないだろうし、リアリティショーの例にあるように、その演じる自分と「本当の自分」が乖離することが苦しみを生むというのは理解できる。ただ、他者からまなざされる自分はすべて仮面で、その奥に「本当の自分」が別に存在するととらえると、「本当の自分」を認識できるのは自分自身だけであり、それはシュレーディンガーの猫的な、本当に存在するのかしないのかわからないものなのでは?という気もしてくる。むしろヒュドラのように、複数の顔を備え持つ生き物という方が自分の考える人間のイメージには近いかもしれない。めちゃくちゃ脱線しました。

 

上演時間が休憩あり2時間半で、正直カンパニーが揉めている下りが結構長く感じ、1幕と2幕で既視感を感じる場面もあるので、詰めて2時間休憩なしでいけないのかなとも思う。しかし休憩で少女が作品世界にシームレスに入っていくことを表現したいのであれば休憩が必要なので、むしろ休憩のために2幕構成にしているのかもしれない。あと劇中劇の構造の場合、切り分けを明確に示すためか劇中の芝居が大仰になるのはよくあることなのかな(「雨花のけもの」でも思った)

ひとつわからなかった点として、終盤のアンヨのインタビューのシーンがある。作中の現実世界では宗ちゃんの自死によって2021年12月の上演が中止になったと理解したのだけど(いちばん外側にいるはずの脚本家が「俺の記憶からできた物語」「あの悲劇」と言っているので、何かが実際に起きているはず)それを振り返るインタビューのアンヨがひどくあっけらかんとしているので、どこまでを作中の事実と捉えればいいのかわからなくなった。まあそこの境界をぼんやりとさせることも狙いのうちなのかもしれませんが…。

好きだった台詞

・「ロングラン公演のマチソワ間みたいに、だらだらうだうだ」何を言いたいかよくわかる。

・「台詞は嘘でしょ」とワンコに言われた宗ちゃんの「嘘は『つく』本音は『吐く』、台詞はつくとは言わない、吐くものでしょ。だから台詞は役者にとって本音じゃなくちゃ」

・これはチェーホフの原作にある台詞らしいですが、劇中の

「私たちの仕事で大事なのは、名声だとか栄光だとか、私が夢見てたようなものではなく、耐えることができるかどうか」

これは舞台に立つ仕事の現実なのかもしれないと思う、観る側からすると残酷なことに感じてしまうが…。

 

壁に貼られたかもめカードと、劇中で演者がつける仮面の形がよく似ていたり、視覚的にも色々なメタファーが散りばめられていると感じた。 総合して考えることが多いけど、わからなすぎるということもなく、自分にとっては良いバランスだった。

公演は明日までですが、配信も12日まであるようです。

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