言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

ひとりの人間が持ついくつもの顔

パルコ・プロデュース2021「ザ・ドクター」感想。舞台としてすごく引き込まれ、なおかつ自分の中で色々なことを考えさせられる、という両立がすごい。戯曲で読んでも面白かった。

▼1幕

主人公のルースはアルツハイマーに関する研究所の所長を務める有能な女性医師。同性愛者でチャーリーという女性パートナーがいるが、カミングアウトはしていない。近所のサミというティーンエイジャーと交友があり家に遊びに来る関係。ある日、人工中絶の失敗から危篤状態にある患者エミリーの病室に、カトリックである両親の依頼でやってきた神父をルースが入室させず、エミリーが典礼を行わずに亡くなってしまったことから問題が生じる(中絶はカトリックでは大罪なため)同僚らの中でもルースの功績を重視するブライアン、ルースと同じユダヤのルーツを持つマイケルやレベッカが彼女を支持する一方、権力欲を持つロジャーやカトリックのポールは彼女を非難し引きずり下ろそうとする。さらに神父が黒人だったことから、話は人種差別問題へと発展していく。

ルースとマイケルとレベッカユダヤ教徒、ロジャーとポールがカトリックということは早めにセリフでわかるけど、キャストが皆日本人なので、神父やポールが黒人ということは1幕後半に言及されて初めてわかるのが面白い。那須凛さんのツイートで知ったけど、戯曲に「役と俳優のアイデンティティを一致させないように慎重にキャスティングすべき」とあるそう。設定が明かされた瞬間に、それまで見えなかった構造が急に可視化される。

とにかくロジャーがクソ野郎でめちゃくちゃ腹立つ。大事になってるの全部こいつのせいだろうが!という気持ちになる。あと神父はまあ仕事だからわかるけど、父親はそもそも娘が死んだのは自分が人工中絶を認めなくて娘が違法な薬を使ったからなのに、それを全然省みない姿勢に宗教信者の最悪なところが全部出てると感じてイライラしながら観た。

1幕終盤、ルースが出ていこうとするときのマイケルの感情のこもった独白がめちゃくちゃよかった、宮崎秋人さん、弱ペダに出ていた気がする…という認識しかなかったんだけど良いな!あと橋本淳さんが観たくて来たんだけど、ずっと腹立つ役だ。

ここまでが幕間の休憩中に書いてた感想。わたしは無神論者であり、宗教の熱心な信者(自分自身が内心で信じているだけなら勝手にすればいいと思うけど、それを他者の生き方にも押し付けてくる人間)というものが大嫌いなので、その思想がめちゃくちゃ出ているな。しかし戯曲を読み返してもロジャーは本当に有害な男性性の権化みたいな男で最悪だ。ロジャーの場合、序盤亡くなった患者の治療方針についてルースの意見が正しかったというくだりでもわかるように、元々能力でルースに勝てなくて癪に思っていたからこそ、この事件をことさら大事にして足を掬ってやろうという魂胆が見え見えすぎて…卑怯な男…ルースがロジャーに私が男でも同じようにしたかと尋ねるシーンで、ロジャーがさも不当なことを言われたかのように振る舞うのが一層腹立つ。女は自分より下の存在だと思ってるから上から来られたくないんだろ?能力だけで考えたらルースの方が有能かつ地位が上なんだから上から来るのは当然なのにな。

若手医師にルースがボーイズクラブに入る必要ないのよって言うセリフ爽快だったのに、若手医師は宗教観の相違からルースを支持しないんだなと思うと、人間のアイデンティティのややこしさを感じる。

▼2幕

研究所を辞任したルースは激しいバッシングを受ける。ここで思い出したのは池袋の暴走事故のことだった。わたしはあの事件で、様々な証拠から容疑者に責任があることは明確なのに車のせいにした供述がマジで許せなくて、Twitterでもそういう旨のことを書いていたけれど、それもバッシングなのだろうか。でも世の中で起きた事件について自分の思うことを書くのは当然のことでは、とも思う。本人にリプライするかどうかなのかな。

バッシングと加害に耐えかね、戦うことを決意したルースはテレビのディベート番組に出演する。しかし様々なバックグラウンドを持つパネリストたちとの会話を通じて、ルース自身が持つ価値観の偏りも徐々に明らかになっていく。本当に面白かったのが、1幕はルースがひたすら不当に弾劾されていると感じていたんだけど、2幕のやり取りを通じてルースにもそこまで肩入れできないということに観客が気づかされていく感がある。彼女は感情的になると言ってはいけないことも言ってしまうし(エミリーの中絶の詳細など)カトリックに対する強い嫌悪感がある。これ、ルースがカトリックの小児虐待を糾弾したことと、中絶経験があること、レズビアンであることは繋がるのか?と思ったけど、それはさすがに穿ち過ぎか、幼い頃はユダヤ教徒だったはずだし…。

ルースはユダヤ人で(本人の信仰としてはユダヤ教徒ではないが)ある見方においてはマイノリティゆえに優遇されているとも見られる。一方で対神父の話になると彼女はエリート白人女性で差別者側と見られる。ルースは本当に研究所で特定の属性を優遇しようという目論見を持っていたわけではないと思うし、自分は人間をグループ化しないと言うけど、パネリストの指摘にもあるようにそれがエリートゆえの論理で、強者の立場からは現存する差別構造を透明化できるが弱者側ではそれを透明化できない、というのは事実なので、このあたりでルースに肩入れできなくなってきた。ルースは自分は医師であり、それ以外何者でもないと主張するけど、人間が社会的な生き物である以上多面的な見方からは逃れ得ない。あと、誰もが自分のあり方を選び取れるべきというような発言をサミを例に出して話すんだけど、選び取れること自体が強者なんだよな…そしてサミも言っているがトランスジェンダーは選び取ったわけではない…。

ルースは番組最後に謝罪を求められるが、医師として何も間違ったことはしていないと拒否する。ここで彼女を守ると言った大臣が出てくるけど、査問委員会にかけると手のひらを返す。ここ舞台で観たときには嫌悪感が勝ったんだけど、戯曲を読み返してみると、ルースの行動は研究所のリーダーとして見れば確かに全部間違っているなあと思う。大臣は1幕でも謝るように言っているし、リーダーとして組織を守ることを考えれば、父親の前で名前を明かしてしまったことなどは軽率にすぎた(もちろんそうなった原因はロジャーだけど!)そしてここまで至ってしまったら、本来ルースのやるべきは自身が納得できるできないに関わらず、謝罪による早急な火消しなんだと思う(それが正しいかは別として)

番組を終えて家に帰るとサミがいて怒っている。サミはトランスジェンダーであることを家族には話していなかったので、ルースは故意ではないにせよアウティングをしてしまっていた。 家にひとり残されたルースのもとに神父がやってきて、ふたりはお茶を飲みながら語り合う。神父は査問委員会でありのままを証言したけど、ルースは10年の医師免許停止になって、もうアルツハイマーの研究は果たせない。ここまでにも合間合間で示唆されているけど、ルースのパートナーだったチャーリーはアルツハイマーで、全てを忘れる前に自ら死を選んだ(冒頭、ルースが警察に人が死んだことを通報している音声から始まるんだけど、これはチャーリーのこと)アルツハイマーについて、「人間の記憶は背の高い引き出しにしまわれていて、最近の記憶は上、古い記憶は下。そこに火がかけられて上の方から燃えていく」という台詞を淡々と語るのがすごく心に残る。

このくだりでまたルースへの印象が変わった。ルースはチャーリーが自殺したとき、医師として疑われることがないように愛する人の死に目を見なかった。ラスト、「人間である前に医師だと思っています」という彼女の台詞から彼女の求める在り方と覚悟が伝わってくる。神父がルースに言う、人は1000人の人間が住む街みたいなもので、どの自分がその中のいちばん上に上がってくるかだ、という表現が秀逸だと思った。2幕前半でルースが決して完璧な聖人ではないひとりの人間だということを感じ、この2幕後半でまた医師であることを己の中心におくルースの苦しみと強さを感じる、この作品自体のようだなと思った。

最後、ルースと幻影?記憶?のチャーリーとのやりとりで既にやや泣いてて(「無限の可能性があったことが恋しい」というセリフがずんときた)胸を貫くようなルースの嗚咽と、冒頭と同じ最後の台詞を聞いて、そしてカーテンコールで本編では一度も見せないぴかぴかした笑顔の大竹しのぶさんを見たら、なんか逆にぐっときてしまって(うまく言語化できないんだけどルースの不器用さみたいなものが沁みたのかな)カテコ号泣という初めての体験をした。

前半に幼い頃お茶を淹れてもらうのが愛だったというルースの台詞があって、サミが弾劾されるルースを気遣うシーンでお茶入れようかと言ったり、前半に今の医学の不完全さについて話す中で医師は白衣を着た魔女という台詞があってからの、弾劾における魔女狩りの比喩とか、台詞に美しい流れがあって観ていて気持ち良い。

1幕は白っぽい空間に大きなデスクと椅子、天井から蛍光灯風の照明が吊るされている。舞台中央は議論のシーンではゆっくり回転する。ルースの家のシーンでは照明が暖かみのある色に変わり、壁に窓枠が投影される。

2幕のテレビ番組のシーンは後ろにセット風のパネルが置かれ、上からモニターがおりてくる。この転換は舞台上で番組収録の準備という体で行われるので、観客の集中をあまり切らさないのが良いと思った。