言語化修行中

観た舞台の感想を書きます。ストプレとダンスが好き。

「まなざす」と「まなざされる」の反転

ムケイチョウコク「反転するエンドロール」感想。千秋楽終わったのでめちゃくちゃネタバレしていますが、再演あるかもなので気になる方はご注意ください。本当におもしろかったんだけど、行く前にインターネットにどういう公演なのかの過去情報があまりなくてやや不安だったので、次回公演時の参考になればと思って詳しめに書きます。


serial numberの公演で3回ほど観て、演技も顔もド好き…と思っていた佐野功さんが出るのと、DAZZLEに狂って以来イマーシブシアター全般に興味があるので観に行った。

 

この作品には役が与えられる登場人物チケット(キャストと会話する)と、無言で見守る傍観者チケットの2種類が用意されている。舞台はとあるミニシアター映画の完成披露パーティー。8人のキャストが演じるのは、監督、プロデューサーである妻、助監督、映画美術家、元俳優の芸能プロダクション社長、主演俳優、助演女優、会場であるカフェの店員。ちなみに会場のポレポレ坐は実際に地下がミニシアターなので、会場選びから没入に配慮されていることがわかる。

ただ、これは全て表の世界における配役で、会場が2つに仕切られており、向こう側に裏の世界がある。そこは表の世界から見ると監督と俳優たちが映画上映前座のパフォーマンスを準備している部屋なんだけど、同時に監督が撮った映画「砂と影」の中の世界でもある。砂嵐が吹き荒れる砂漠の街の酒場。裏の世界において監督は監督のままだけど、主演俳優は博打打ち、助演女優は占い師という劇中で与えられた役になっている。また他の登場人物も裏の世界にやってくる瞬間があり、そのときは助監督は町長の娘、美術家は似顔絵描き、プロダクション社長は元マフィアという役を与えられ、違和感なくそれに馴染んでいる。ずっと変わらないのは監督の妻のみ。


登場人物チケットは13名で、1〜9は表、10以降は裏の世界の役を与えられる。1は助監督の姉妹、2は助監督の婚約者、3と4は芸能プロダクションの俳優(4は監督妻の姉妹でもある)、5は監督の主治医である精神科医、6は映画インフルエンサーで社長の友人、7は美術家のアシスタント、8は美術家の子供、9はカフェ店員の友人、10は自分の名前を探す記憶喪失者、11と12は安住の地を求める隣国からの亡命者カップル、13は息子を探す親。「砂の影」は皆が何かを探し求めてそれが見つからない、という物語なので、裏のキャラクターはほぼ全員何かを探している。わたしは登場人物で2回入って、七瀬朝日と亡命者のリンになりました。


この設定でわかるように、登場人物チケットのキャラクター(特に表)は全員それぞれストーリー中で深く関わるキャラクターがいる。最初に与えられた設定の紙を読んだ時点ではまだ自分がうまく動けるかかなり不安だったが、冒頭でそのキャラクターから話しかけられ会話を交わすと、自然と自分がとるべき振る舞いや受け答えがわかる、というか導かれる。わたしは登場人物の初回が美術家・八戸剛の弟子である七瀬朝日だったんだけど、八戸に「お疲れ」と話しかけられて「お疲れ様です」から会話を交わしていく中で、自然とこの人の弟子であり尊敬している、というロールプレイに入っていけた。


登場人物チケットのキャラクターにはそれぞれ設定やアイテム、一部には秘密が与えられていて、これはマーダーミステリーに近いのかもしれない(自分はあんまりやったことないけど)。七瀬の場合、実は八戸は右腕が動かず、今回の美術はほぼ七瀬が作ったという秘密がある。これは絶対に誰にも言ってはいけないと記載されていて、八戸は会話の中でそのことを申し訳なく思っている素振りを見せるし、中盤で監督の妻・杏奈にそのことを問い詰められる場面があり、このとき何と返事をするべきなのか、本当に動揺した。結局わたしは事実を隠し通し、後で杏奈役の大塚さんに聞いたら、どちらの選択をする客もいる(なので両方のパターンの受け答えが用意されている)とのことだったんだけど、その瞬間のヤバい、バレた?!という感情は、私自身のものでもあるけど七瀬朝日としてのものでもあって、完全に役に入り込んでいた。

これはTwitterでも書いたが、わたしは注意力散漫なのか感受性が弱いのか、劇場で客席に座って舞台を観ていると、あまり物語の中には入り込めていないことが多い。もちろん舞台自体は楽しんでるんだけど、このシーンの照明は…この演出の意図は…セリフの抑揚が…とかメタなことをすぐ考えてしまう。わたしは演劇を見るとき、楽しさの6割くらいを構造や見せ方から制作者の意図を読み取ることに置いているんだと思う。だけど、この登場人物チケットはそんな俯瞰の視点ではいられない。一対一でセリフが飛んできて、作品を成り立たせるためにはそれにとにかく返事をしなくてはならない。なぜなら場には傍観者チケットの純粋な観客がいて、自分自身も舞台に上げられているから。そしてそれを続けていると否応なしに自分が作品世界に入り込んで感情を動かされて、目の前で起きることに自然と驚いたり悲しんだり辛くなったりできて、時には涙まで出て、それがめちゃくちゃおもしろかった。想像力のブースト?バフ?をかけられた気分だった。わたしのように物語に入り込むのが不得手な人にこそ体験して欲しいイマーシブだ。


物語の内容について。軸となるストーリーはきちんとあるが、割と群像劇に近い。登場人物チケットの場合、会場内で自由に動くことはできず、キャラクターの促しに従って行動していくことになるので、普通は自分が深く関わるキャラクターの物語にフォーカスすることになると思う。そして最後、特に表の登場人物はそれぞれ自分が深く関わったキャラクターから問いかけを受け、ここで何と返事をするかによって各キャラクターが迎える結末が変化するようになっている(らしい、わたしも全パターン見たわけではないが確かに展開の違う回があった。絶対選ばれないだろうパターンもあるが)。これもとても良い。イマーシブシアターのすべてがそうなわけではないのかもしれないが、イマーシブを謳うなら本来マルチエンディングであるべきだと思っているので。あと、基本的には会話で進みつつ、オープニングや劇中で登場人物がダンスのようなムーブメントをするくだりがあり、それによって現実と切断されて物語世界へ誘引される感覚があった。


一方、傍観者チケットだとキャストおよび登場人物チケットからは見えない存在、場の空気や影として空間に存在することになる。なので自由に移動でき、好きなキャストをひたすら追ったり、気になる会話を聞いて回ったりできる。ただ占い師のキャラクターにだけは存在を感知されていて話しかけられる場面があったり、終盤の監督の独白で傍観者の存在が舞台装置になる瞬間があったりと、完全な透明ではない。そしていちばん最後のエンディングでは、キャストが傍観者の手をとって踊り、それを着席した登場人物が観る。この演出がとてもおもしろくて、「まなざす」と「まなざされる」の鮮やかな入れ替わりが、まさに「反転するエンドロール」そのものだと感じた。物語自体も、監督が妻に頼んで脚本の結末を書き換えるという終わりを迎えるので、ストーリー的にもタイトルが回収されている。また、ダンスなんてしたことないけど目を見られながら手をとって誘われると自然とそれらしく動いてターンなんかもできたりして、これも劇中で演者に自然と誘われて自分の内部から言葉が湧き出てくる感覚と重なって面白かった。

 

喋れるイマーシブを初めて体験して、改めてイマーシブシアターが観客に委ねる要素の大きさを実感した。あの場にいる誰かひとりでもレギュレーションから逸脱した言動をとった瞬間に物語が成立しなくなる。DAZZLEの百物語でもそうだったけど、観客を信頼して任せる部分がめちゃくちゃ大きくて、そういう信頼に触れると嬉しいし、特別な体験をしたという気持ちが強まる。


演者もみんな素敵。裏の世界だと映画監督・KEIの善良さやピュアさに心を打たれて、特にリンは不安な立場なのですごく安心させてもらった。市川さん劇中の音楽も手掛けてるらしくて多才すぎんか(サブスクで聴けます)。逆に表は杏奈の戸惑いや苦悩がわかるからこそ最後のシーンが刺さるし、マイクが姉や仲間の後押しを受け、かつて自分が演じた人気キャラ・ヤクザヒーローの一節を演じるくだりも本当に良いし…ひとりひとりの人格に魅力があり、Wキャストの役もあるのでキャストごとの違いも垣間見えてとても面白い。Venus of Tokyoでも思ったけど、複数キャストが同じ役を演じるのって、解釈の違いと共通点からその役の芯みたいなものが見える気がして好きなんだよな。

あと最後にオタクの叫びを書きますが、佐野さん演じる博打打ちエイトが好きすぎました。名うてのギャンブラーで修羅場も潜ってきたであろう男なのに恋愛偏差値がゼロで、「本当の恋」を探している。同郷の幼馴染であるアリサへの恋心を認識するシーン、あまりにもかわいすぎてにやにやしちゃった…でもギャンブルで登場人物たちを助けてくれたり、マイクとのやりとりでちょっとピリッとする瞬間はこの上なくクール。「ちょっと勝ちすぎちゃって笑」ってくだり好きだったな。これはわたしの主観だけど、佐野さんってどんな役をやっていても良い意味でちょっと二次元みたいな人だなあと思う。すてきです。もっといろんな役が見たい。

気づかせてもらった感謝

「Breakthrough Journey」2022年度の感想。振付・出演のDAZZLEが好きなので観に行った。今回再演なんですが、初演時はまだ詳しく知らなかったので初見。


国内7地域、海外4地域のチームが物語の中でパフォーマンスを見せていくダンス公演。ストーリーとしては、カメラマンを夢見るアジア(国はセリフで明言されていないがおそらくシンガポール)の少年(DAZZLEイッキさん)と、聴覚障害を持つダンサー志望の日本の少女(実際に聴覚障害を持つダンサーの梶本瑞希さん)がインターネット上で交友を深め、香港で開催されるダンスフェスティバルで会う約束をする。少年と少女が道程で出会う人々を各国・日本各地のチームが演じながらナンバーを披露する(少年のヒッチハイクの手助けをしてくれる地元ダンスチームをシンガポール代表、スリからカメラを取り返してくれるマレーシアの人々をマレーシア代表、みたいに)少女は耳が聞こえないことを公にしておらず、ダンスフェスティバル会場で笑われて逃げ出してしまうが、少年は少女を追いかける。少女は障害について告白して、2人は東京でついに出会う、というところで幕。


まず多様なチームのダンスをひとつの作品としてまとめて見せるためのパッケージングが優れていると思った。ショーケース的なダンス公演の難しさとして、振付やスキルの違いによって一貫した世界観で見せづらく、観客の集中力がぶつ切れになる(発表会的になってしまう)ことがあると思うんだけど、主人公の少年と少女が旅する中で出会う風景として描くことで、チームごとの違いを鮮やかな個性としている。同時に、極力ひとつの作品としてまとめあげるための見せ方の工夫も随所に見られる。画作りが美しい。島根のチームで特に感じた。狐の嫁入りのシーンの人々を背景に持ってくることで、モノトーンの衣装の人々とカラフルな衣装を着たダンサー4人を対比させつつ画を保たせている。ダンサーが全員中学生なので、軽快な身軽さはあるけど完全に4人きりではステージがだだっ広く見えてしまいそうなんだよな。衣装のパターンも多くてどれも魅力的。あとこれは総合演出なのかチームの振付側なのかわからないけど、大阪のチームがDAZZLEがよくやる階段状に並んでの手の振りを踊ったりなど、振付でのつながりも感じられた。


本作は「障害者の文化芸術創造拠点形成プロジェクト」として作られた作品で、軟骨無形成症やダウン症聴覚障害などを持つダンサーが障害のないダンサーと同様に参加している。わたしはこれまでそういう作品を生で観たことがなく、今日観るまで自分が何を感じるか不安もあった。有り体に言えば、「障害のある方が頑張っている」ことに単純な感動を感じて終わってしまうのではないかとやや懸念していた。でも実際見てみるとそれは完全に杞憂で、シンプルにダンスそのものに圧倒され引き込まれた。たとえば台湾のパートで占い師の役を演じていた方(森田かずよさん)のダンスはリーチの短さをハンデにせず、むしろ視線を集中させ繊細な表現を実現していると感じて見とれた。大阪チームのダンスからは身体的ハンデなんて関係ない!という踊ることの根源的な楽しさが伝わってきてキラキラしていたし、マレーシアチームの左脚がない車椅子のメンバーを中央においたフォーメーションダンスはまるで観たことのないものだった。日常生活において、障害の有無を完全に度外視することは今の科学や社会ではまだできない、でも「ダンスで表現する」ということにおいてはそれは全く関係なくて、むしろ個性や強みにもなりうるということを実感できた。ダンスってすごい。上で書いた心配と先約があったから1公演しか取っていなかったんだけど、普通に全通すればよかったな…と今は思っている。ダンス観るのって音楽ライブと同じ感覚で、同じナンバーやっても毎回違うので何回観ても楽しいんだよな。


あとわたしは「Venus of TOKYO」で安藤紗由莉さんのダンスを好きになったので、今回プレイハウスの広いステージで踊るところをたくさん見れてうれしかったです。少女の学校でのシーンはぐるっと脚を上げたり大きく手足を伸ばしたりの振付がご本人のしなやかさによく似合っていたし、電車の作業員のシーンはツナギの衣装もかっこよくて眼差しのクールさがVoTの看護師を思い出したし(はけていくときに汗を拭うマイムしてたの細かくて良かった)スーツに赤い手袋で踊るナンバーはひたすらかっこよかったのと、ラストの決めポーズがDAZZLEだと主宰が担当するやつっぽくてテンション上がった。マレーシアのダンスを観に来るシーンはにこにこしててかわいかったな。


DAZZLEが9人で踊る姿も去年の「NORA」ぶり(トークショーで踊ったときはあったが)に観て、当時と比較してメンバーへの自分の思い入れが爆増しているのもあり、さらに物語上のカタルシス(少年の心象風景みたいにみんな色鮮やかな衣装で出てくるから…)も合わさって終始ぐっときていた。イッキさんの少年は手足の長さを生かした伸びやかなダンスで(特に苦悩や悲しみの表現が良かった)またDAZZLEユーキさん、しんじさん、カズさん、あつしさんが少年の分身(内心の声)を演じていて、少年が香港へヒッチハイクしようとするシーンのコミカルなかわいさも良かった。少女の方も女性アンサンブルが分身を演じていて、最後ふたりが出会うシーンでそっとそれぞれの背中を押すのに泣いてしまう。あとレストランの嫌な客、学校の配慮に欠けた教師、カメラ屋、船乗りなど多くのモブをDAZZLE主宰の達也さんが七変化で演じていておもしろかったのと、カメラ屋で顕著だったけど台の下から出した手だけで踊る(本当に踊ってる)のがすごい。主宰の手は魔法の手。


少女役の瑞希さんについて。聴覚障害がある方がどうやって曲に合わせて踊るのか最初わからなかったんだけど、実際公演で観たら、聞いていなければ聴覚障害があるとは全く思わないダンスだった。他のメンバーが身体に触れたり指でカウントを出すことできっかけを示しているらしい。それもすごいし、そこから拍を保ちながら魅せるのは本当にご本人の鍛錬によるものだと思うのでとてもすごい。ちょっと話がずれるかもしれないが、近年マイノリティの役には当事者性を持った演者をキャスティングすべきという意見が一般的になりつつあり(わたしは実現性がある限りそうあるべきだと思っている)そのときバックラッシュとして、当事者の方に求められているだけの表現スキルがあるのか?という反発が発生しうると思っていて、だからこそ本作のような公演によって、障害を持った演者がそうでない演者と同様にハイレベルなパフォーマンスの実績を残すことは社会的にもとても重要なのではないかと思った。

 

総合して、DAZZLEを好きにならなければこの公演を観に行くきっかけを見つけられなかったと思うので、出会えて本当によかったなという気持ち。主宰が以前「DAZZLEに気づいてくれてありがとう」と書かれていたんだけど、ダンスを観る面白さやダンスから得る様々な感情をはじめ、自分がDAZZLEに気づかせてもらったことがたくさんあるし、きっとこれからも増えていく。それはとても嬉しいなと思う。

どこにも行けないぬかるみ

GORCH BROTHERS2.1 「MUDLARKS」先日衝撃を受けた「空鉄砲」のキャストということで観に行った。めちゃくちゃ良かったから売り切れてないのが解せない!大きい声を出すやりとりさえ大丈夫なら万人に観てほしい、つらいが…。以下ネタバレしています。


YouTubeで稽古場の様子とかキャストインタビューとか色々あげてくれていて、すごくいい取り組みだなと思うんだけど、先入観を持ちたくなかったのであえて見ておらず(2回見るので次までには見ようと思う)なのでこれは前提知識などを特にインプットしていない感想です。脚本家との対談だけは読んだ。


舞台はロンドン近く、工業地帯が広がる豊かとはいえない街・エセックステムズ川の川べりに駆けてきた2人の少年、チャーリーとウェイン。彼らは興奮した様子で、俺たちはすごいことをやった!と言い合っている。しかしチャーリーは繰り返し鳴り続ける電話に苛立ち、遅れてやってきた仲間のジェイクはなんだか様子がおかしい。会話の中で、彼らがやったことは何なのか、3人の関係と背景が徐々に明らかになっていく。

チャーリーは粗暴で素行もよくないが、両親との関係は悪くない様子。ウェインは3人の中だとバランサーで、父子家庭で貧困に苦しんでいる。ジェイクは比較的裕福な家庭に育ち、教育熱心な母の元で進学を志す。彼らは家が近所で共に育ったが、17歳になった今では境遇に違いが生じている。この街を出て何者かになりたいというジェイクに対し、チャーリーとウェインは反発し足をひっぱろうとする。これすごく身につまされる話で、イギリスが舞台ではあるけど日本でも感覚として同じようなことはあると思う。チャーリーもウェインも地元への愛着こそあれど決して状況に完璧に満足しているわけではなく、でもそこから出ようと志すきっかけや夢を抱くこと自体が、ある程度の知識を得ないと難しいという…後半でウェインとジェイクが夢について語るシーンもスーパーしんどい。ウェインは自分の身の回りに見えるものしか知らないから、夢を持つこともできないんだよな…あとウェインは序盤からずっと「家には帰らない」と言い父親の話題を避けるんだけど、それがネグレクト状態だった父親が失踪して6歳の弟と2人で残されている状況(そして弟をひとり残して家を出てきている)からだと途中でわかる。

チャーリーとウェインは橋の上から道路にコンクリートの塊を落とし(この様子は冒頭で描かれている)それが当たったトラックが事故を起こして運転手が死んだ。ジェイクは一部始終を見ていた結果、橋の下から姿を目撃されている。同時にチャーリーはこの日、好きだったクレアという女の子に迫ってビンタされたことに腹を立て、彼女を突き飛ばして殺したか怪我を負わせており、クレアの兄とその仲間がチャーリーを探していて、見つかったら酷い目に遭わされる、とドラッグでラリりながら告白する。ラリったチャーリーがナイフを出してジェイクとウェインを脅し、揉めた末にウェインの首を絞めるチャーリーをジェイクが刺すところで暗転。時計を見ていないのでわからないがここまでで1時間くらいかなと思うんだけど、体感マジで一瞬だった。


ふざけ合う3人の回想(夢?)を挟み、そのあとは倒れたチャーリーの傍らでウェインとジェイクのやりとりになる。チャーリーを置いていこうというジェイクと、助けようというウェイン。架空の船で旅に出るごっこ遊びのくだりを挟み、船からウェインを落としたジェイクは、チャーリーを刺した罪をウェインに着せると言う。潮が満ちてきて、チャーリーは海へ流されていく。なんとか堤防の上に上がったふたりの耳にパトカーのサイレンが届く。事件の日、ジェイクの元にはカレッジの合格通知が届いていて、家族でパーティーをするはずだった。一緒に行こう、と言い合うウェインとジェイク。川に身を投げるジェイクで幕。最後、ジェイクが足場から飛び水音がした瞬間に思わず天を仰いでしまった。違う「行こう」だったんだな…。


見せ方がおもしろいなと思ったポイントのひとつ、中盤の暗転までの間は舞台上に黒布が敷いてあり、キャストがそれに足をとられるのが引き潮のぬかるみを演出している。暗転時にふざけ合いの中で黒布が片付けられ、その下にあった縄が舞台上に投げ出されテグスで引っ張り上げられて、満潮に転じ寄せてくる水際の表現になる。まるでチャーリーを刺したシーンで干満が切り替わると同時に運命が決まったかのようで、後の彼らはただ迫ってくる澱んだ水から逃げることしかできない。


キャストが3人とも自分が抱いていたこれまでのイメージと違う役をやっていて、でもそれがすごくしっくりきていた。穂先さん、今まで見たことのある役は少年性の強いものが多かったけど、背が高く手足が長く恵まれた身体をしていることもあって、チャーリーの自分が王様だと思っているような傲慢さとマッチョイズム、その裏にある危うさがよく似合う。玉置さんのジェイクは初めは弱々しく見えるがやがてその奥の切実な意志の炎が見えてきて、同時にシビアな賢しさも感じさせる。「今日はパーティーのはずだった」みたいな台詞でジェイクの後悔と絶望がひたひたに感じられてアアーってなった。永島さんのウェインは言葉を選ばずに言うと愚かだが、その愚かさはやむを得ない部分が大きいし、ウェインの「寝ているときコンテナを運ぶ音がすると誰かが働いてるんだと思う」みたいな台詞に彼の善良性を感じてつらい。あまり自我の強いタイプではないように見えるので、彼の人生は置かれた環境によって大きく左右されると思われる。ウェインがチャーリーと一緒にコンクリを投げたのって、彼に何らかの助け(食べ物とか金とか)をもたらしてくれたのがチャーリーしかいなかったから、嫌な部分があったとしてもチャーリーをすごく大事に思っていて、同時にコンクリを投げることで生じるその先への想像力が欠落しているからなんだよなと思うと、本来なら責められるべきとも思いつつ、永島さんの演技もあってかわいそうに思えてしまう。


あと、3人でいるときとチャーリーが不在のときではジェイクとウェインの関係性にかなり違いがあるのも面白い。ウェインはチャーリーがいると彼の機嫌をとろうとして共にジェイクをバカにしたりするけど、2人のときは対等に話しているし、ジェイクもウェインに対しては物怖じせず話す。人間関係ってこういう微妙なパワーバランスあるよな、特に10代の頃は…と思った。


この作品をなぜ面白いと感じたのか考えてみる。ストーリー的にはどうしようもない閉塞感、やり場のない怒り、救われない絶望に満ちているし、少年たちは客観的に見たら擁護できない犯罪者だ。それでも各キャラクターの内面を過不足なく伝える台詞回しと演者の繊細な演技によって、3人が物語の中で生きて立ち上がっているから、観ていて引き込まれるし各々の人生に思いを馳せることができるんだと思う。

彼らは結局どこにも行けないけれど、入れ替わり立ち替わりどこかに行きたがる。細かく覚えられていないが、前半では電車でサウスエンドに行こうというウェインにジェイクがどこにも行けないと返すのに対し、後半では逆転したやりとりがあるのが印象的だった。もう一度観るのでもっと細部まで感じたい。

 

戯曲を生かすのも殺すのも演出

青年座「燐光のイルカたち」青年座は基本的に観に行くことにしているのと、横堀悦夫さんが観たくて行った。


北と南が壁で分断された国で、北が南を半ば支配している。南の壁の近くで主人公の真守が営む商店に、ある雨の日、北の青年・凛が迷い込む。真守、凛、真守の妻である一恵、一恵の妹のふみが登場する現在と、真守、弟のひかる、兄弟の両親、父の友人である丈二が登場する過去(真守の回想や幻想)が入り混じりながら話が進む。過去に登場する人々は真守以外は故人であることがだんだんわかる。真守はやや精神が混乱していて、幻想の中で死者と対話したりもする。


最初は壁から東西ドイツがモチーフかと思ったが、モデルはパレスチナ自治区であることがだんだんわかる。北は大国の力を背景に南を実質支配下においていて、「青パス」を持っている北の一部の人間は南に自由に出入りできるが、南から北には行けない。北の支配は抑圧的で、北の人間が入植してきて南の土地が奪われているし、ひかるたちの祖父母は(おそらく)北に殺された過去がある。ちなみに南の人間は関西弁を喋るしお好み焼きを食べるし登場人物は全員日本ぽい名前だが、冒頭で凛の名前について「変わった名前」というくだりがあるので、日本ではないという布石なのかもしれない。家族の温かな会話の中で、少しずつ過去に何があったのか、生き残った真守が抱える痛みが明らかになっていく。


先に書いておくと、ひかるは脚本家を目指していて、ドキュメンタリー監督である丈二の手引きでシナリオコンペに応募し、入選して海外留学するが、留学先で丈二から母が北軍に殺された知らせを受け、テロ組織に洗脳され、ハイジャックテロ(9.11をモチーフとしている)実行犯となる。事件後に真守と父は収容所に送られ拷問を受け、おそらく父は獄死、真守だけが店に戻る。テロ組織は摘発され丈二も軍に殺害される。というのが過去にあったこと。


何だろう…面白かったし思うことは色々あったんだけど、完璧にピンときたというわけでもなく、感想の言語化が難しい。理由のひとつは後半かなり急展開するからだと思うが、その展開自体は思い返せばある程度いろいろなところで準備されている。丈二は知り合いが吉見(テロ組織のリーダー)と会ったことがあるというくらいには反体制側の人間だし、ひかるは祖父母が殺されたことや抑圧される生活に強い怒りを感じていて、世界を変えたいと思っていることはセリフにもある。ただ、終盤過去にあったことが明らかになっていくシーンで力技な気がしてしまったのは、正直演出が陳腐だと感じたからだと思う。もったいなかった。真守と父が夜の店で喋るシーンから、収容所での拷問の回想になり(ここまではいいと思う)そのあと母が銃殺される。舞台後方におかれていた壁のセットが移動され、開かれた空間にひかるがひとりで登場し、音声と会話する形で自分にあったことを語る。まず音声と会話する形って音声が一定である以上想像以上の形にならなくないですか?わたしはそれなら完全に一人芝居にしてしまったほうがいいと思う派。舞台奥の壁前に死者たち(父母と丈二)も現れてセリフを言うくだりもあるんだけど、流れ的に観客はこのときまだ丈二の死を見ていないので(この後死ぬが)違和感があったのと、テロが始まってから舞台奥の壁に単語がたくさん投影されるんだけど、それがどうしてもチープでは?(最後「さようなら」が残るのも含めて)という印象だった。あとここで舞台の後ろ側を開けるが、ラスト舞台後ろの壁に再度イルカの影を投影するくだりがあり、そこまでのシーンが開いたまま行われていて、それもうーん…という感じがあった。

戯曲を読んだらこの部分は一切ト書きがなくて、セリフ(?)が詩のようにたくさん書かれているだけだった。つまりここは演出が自由にできる部分だと思うが、果たして今回の演出が本当に正解なのか?という疑問が大きい。考え抜いた結果これなのか?あと壁は店の出口の外(舞台の奥側)にあるので劇中客席からは明確に視認できないんだけど、このテーマでその美術が良いのかもちょっとわからないんだよな。ただ、ひかるが独白するシーンのセリフのキレはすごいと思う。だからこそこの言葉を120%観客に突き刺す演出がもっとあるのではないか?という気がしてしまう。


ストーリーについて。生前のひかると真守はひかるが書いていたシナリオの結末で議論になり、ひかるは南の人間が北の人間を殺す結末、真守は殺さない結末を望んでいた。だから過去で丈二から銃を託された真守は兵士の頭を狙うが発砲はしない。ラスト、凛から南と北それぞれで暮らす者の視点を合わせて脚本を書こうと言われた真守は、「シナリオに書いたことは本当になるんだ」と言い、真守の語りに乗る形で北と南の少年が出会う劇中劇が始まり幕。非常にシビアな話ではあるが、終わり方には人類愛と希望が残るともいえる。ただ、タイトルの「燐光のイルカたち」について、これは劇中でアーティストの男が壁に描いて射殺されたグラフィティのイルカでもあり、ラストシーンの劇中劇で壁を越えていく2人の少年の姿でもあると思うが、同時にひかるのマインドコントロールに一役買ったビデオにもイルカが登場している。戯曲冒頭にも、「魂を冥界に運ぶ死者」「救済と復活の象徴」という相反する2行がある。また燐光の意味もグラフィティの蛍光塗料でもあり、同時に腐敗した生物が発する青白い死の光でもある。明確にこれ!というのはなくてイメージの多重写しみたいな感じなのかもしれないが、自分は最後の劇中劇のシーンが現実の生では決して生じ得ないという印象をうけた。主観です。

あと現代において一恵とふみを置いた作劇意図がいまいちわかりきらない部分があり、また真守と住む世界が違ったであろう一恵がどのように知り合ったのかも語られないため若干腑に落ちず、真守は孤独である方が物語がクリアになるのではないかという気もした(これは個人の好みを多分に含むと思うが)。北から駆け落ちで来た一恵の身の上を語る中で北と南の差について説明しやすいというところもあるのかもしれないが。


演者について。横堀さん、野々村さん、松川さん3人のシーンで、本当に演技がうまい…と思わされた。特に野々村のんさんの母が元気でキュートでめちゃくちゃ良い。横堀さんの丈二も好きな役だったな〜。なんであんなに何気なく喋っているようで聞き取りやすくて込めた感情も伝わってくるんだろうか。松田周さんは冒頭とかこの関西弁合ってるのか?と思う瞬間がややあったけど、他の関西弁の人物と会話していると自然に聞こえるな。10年の年月を感じさせるくたびれ感は好き。凛を演じる古谷陸さんの邪気のない、良い意味でも悪い意味でも育ちの良い若者感もヒヤヒヤする部分含めてよかった。

生き残った子孫のひとりとして

だいぶ今更になってしまったけれど、劇団チョコレートケーキ「ガマ」感想。


沖縄戦中、首里近くのとあるガマに集まった6人。ひめゆり学徒隊の軍国少女、生徒たちを鉄血勤皇隊に送り出し死なせたことを悔いている中学教師、上から命じられた無謀な作戦で小隊を全滅させてしまった手負いの将校、ある軍務のために戦いはおさまりつつある沖縄北部へ向かおうとする2人の兵士、兵士たちの道案内を務める地元の協力隊の老人。軍人3人は本土の人間で、残り3人は沖縄人。


前提として、ストーリーはすごく個人的好みというわけではなかった。というか無畏が好きすぎる。帰還不能点でもちょっと思ったけど、古川さんは基本的に市井の人々への目線が優しいなと思う。これは悪い意味はないんだけど基本的に性善説なのかなと感じる。無畏だけはかなり厳しい目線だと感じたのは明確に責任の存在する戦争犯罪者を描く作品だからなのかなと。無畏の松井は最後上室とのやりとりで看破されたことで思いを吐露することはできたけど、全く許されてはいないので…。


ただ好き嫌いと作品としてどうかというのは別の話で、わたしはこの作品はすごいと思った。「ガマの中での軍人と一般人」という設定から導かれるテンプレからは逸脱したストーリーで、でも同時に6人の登場人物全員を生きた人間として描き、沖縄戦の悲惨さのみならず、それを引き起こした本土の人間の沖縄への差別感情までを主題に込める。


これはTwitterでも散々書いたんだけど、この作品が「死のうとする少女を大人の男たちが止める」という構図だからという理由でマンスプレイニングであるという劇評を見かけ、それは誤った読解だと思ったのでここにまとめておく。


まずマンスプレイニングとは「女は男よりモノを知らない」という偏見に基づいて男性が女性に対して偉そうな態度をとったり、上から目線で物事を説明するような行動を指す。この物語に出てくる5人の男たちは誰ひとりそういったことはしない。彼らは「日本人は天皇陛下のために死ぬべき」と叫ぶ安里を見下すどころか、その叫びを耳にするたびに後ろめたそうな、居心地の悪そうな表情を見せる。同時に「皇軍のために戦って死ぬ」と主張し続ける安里は、作中で一秒たりとも愚かに見える描かれ方はされていない。むしろ山城が驚くくらい物おじせず聡明な少女である。だからこそ知念以外の4人の男たちは、そんな彼女をそうさせてしまった日本軍の・皇軍化教育の罪を強く眼前に突きつけられることになる。

またそもそもガマにおける安里の第一属性は「女」ではなく「子供」である。(もちろん完全に切り離せるものではないけど)女学校4年だから15歳くらいで、劇中でも明確にセリフで「子供」って表現されている。男たちの安里への働きかけは、大人が子供を庇護しようとしている姿でしかない。

男たちは安里を教え導いているわけではなく、むしろ安里の姿をこれ以上ない鏡として自分達が加担してしまった罪の重さを突きつけられている。終盤の清水さんの一人芝居めちゃくちゃ良かった。下手で上半身だけ袖から見える形で倒れている西尾さんを下肢を失った負傷兵に見立て、私たちも死ぬから大丈夫、と宥めるシーン凄絶だった。


これはメタではあるけど今回の戦争六篇を全部見たので、劇団員3人はすごい短いスパンで全然違う3役をやってるのを見て衝撃を受けた。全員化け物的に上手くない?ガマは特に浅井さん演じる井上二等兵が見たことない浅井さんで良かった…初回見たときは岸本が東を殺すハッタリをかますときに井上がなんであんなに取り乱すのかわからなかったんだけど、同じ日本人であるはずの沖縄の少年を日本人として扱いきれずにスパイ疑惑で射殺させられた過去があるから、井上はあそこで「やめましょうよ日本人同士で殺し合うのは」と言うんだな。


大和田漠さん演じる知念もすごくよかった。この作品の登場人物を分けるなら軍人かつ本土の人間である3人は加害者側、安里と知念は被害者側、そして沖縄の人間だが生徒たちへの皇軍化教育に加担した山城は加害者でも被害者でもあるということになる。でも知念は被害者でありながら「許す」ではなく「許す許さないの話じゃないんだよ」と言うのがすごいと感じた。ひとつ上の視野にいる。


この作品のメッセージとしてとらえたのは山城の「たくさんの人が死んだからって君が生き延びない理由にはならない」と、知念が言う「人にはみんな優しい心がある」のふたつ。前者は帰還不能点の「全員を助けられないことはひとりを助けない理由にはならない」に通じると思う。後者は古川さんが描く物語に通底して存在する視点の気がして、それなのになぜ戦争が起きるのかということが、わたしたちが過去と向き合わなくてはならない理由だと思う。物語上、あのガマに集った人間が誰ひとり強権的でないことについてのおとぎ話性はどうしても感じるけど、ひとりでも強権的な人間がいた時点でこの物語にはならない(そしてそうならなかった無数のガマが存在することも作中で描かれている)ので、そこに関しては作り手が描きたかったものに対する好みだなと感じる。


今回の戦争六篇を全て観て、わたしは劇団チョコレートケーキが本当に信頼できる作り手だと感じた。繰り返しになるけど、正直フィクションにおける個人的な趣味だけでいったら、もっと登場人物間で巨大感情が行き交い(御涙頂戴ということではなく)誰も救われない結末が訪れる作品が好みだ。でも実際にあった戦争でそういうフィクションをやることはある意味無責任であり、常に誰かを傷つけたり誤解を生む危険が伴う。もちろん劇チョコもフィクションではあるんだけど、過剰な味付けをしていない。文献を元に歴史に向き合い、人間に対する優しさを持った物語を真摯に構築し、なおかつその中で加害者としての責任について問題提起することは、演劇の非常に意味のある在り方のひとつだと思う。

「ガマ」が単体で良い作品であるということはもちろん踏まえた上で、加えてこの戦争六篇の最後に観れたのが良かった。生き残った子孫であるわたしたちは常に過去を知り、未来に生かしていく必要がある。

 

舞台中央に斜めに配置した道があり、上手側がきつめの傾斜、下手側が階段になっている。上手が傾斜なのは足を怪我して立てない東も這いずって移動できるようになのかな。劇中では皆下手からガマに入ってきて上手が奥という形なんだけど、ラストシーンでガマを出ていくときにはその設定が壊れ中央の通路を客席に向かって歩いてきて、その姿が照明に照らされて劇的に美しく、やっとセットの意図を理解できたと思った。舞台はずっと暗くランタン照明が効果的で、暗いのに見るべきものは見える光の加減がとても良かった。

古い価値観の物語を今どう感じればいいのか

KAAT「夜の女たち」感想。よかったと思うところとそうでもなかったところがあった。ミュージカルだが、当たり前かもだけどいわゆるグランドミュージカルとはまるで違うものだと思う。


何作か長塚圭史さん演出作品を観て面白かったので行った。

戦後間もない大阪が舞台。主人公の房子は戦争で夫を失い、幼い息子を病気で亡くす。たまたま知り合った羽振りの良い怪しげなブローカー社長・栗山の会社で秘書として働き始め男女の関係になるが、栗山は満州から引き上げてきて房子の家に住み始めた妹の夏子とも関係を持ち、それにショックを受けた房子は行方がわからなくなる。やがて夏子は房子が赤線地帯の娼婦になっていると聞き、探しに行く。しかし娼婦と間違われて警察に捕まり留置所で房子と再会する。房子は復讐としてできるだけたくさんの人間に性病をうつしてやろうと娼婦になっていた。並行して房子の義理の妹・久美子が家出し、チンピラの清に騙されて体を売ることになる流れが描かれる。警察病院?での検査で栗山に囲われている夏子の妊娠が発覚するが、栗山は堕ろせと言い、さらにそのタイミングで阿片の密輸が発覚して逮捕される。自暴自棄になる夏子を房子は婦人ホーム(福祉施設?)に連れていくが、栗山にうつされた梅毒の影響で子供は死産。夏子をホームに残し街頭に戻った房子の元に、挨拶なしで客をとっている奴がいると知らせが入る。リンチを受けていたのは清の差し金で娼婦となった久美子だった。久美子を説得し、仲間からの洗礼のリンチに耐え、久美子を連れて家に帰るため去っていく房子。


原作は戦後すぐに撮られた映画らしく、正直ストーリー的には全然いいと思わなかった。こういうことが実際にあったのを我々が忘れてはいけない、という企画意図なのかなと思うんだけど(今年のKAATのテーマも「忘」だし)そもそも戦後すぐの価値観に基づいているし、女同士の争いに終始しているので展開に広がりを感じない。舞台に立って歌う女たちを舞台下から男たちが見ている、というシーンが何回かあった印象のせいもあるかも。栗山に裏切られた房子は栗山を恨みつつ夏子のことも憎いと言うし、久美子をレイプして娼婦にした清は特に裁かれることもない(久美子も清に復讐しようとはしない)。パンパンの女たちを否定する純潔教会の婦人も女で、彼女たちの存在を認め救おうとするこの作品の中でわずかな善のポジションには男がおかれている。パンパンの女たちは時折かすかに共感のようなものを見せ合う瞬間はあるが連帯はさほど感じられず、むしろ荒んだ暴力性を帯びて描かれている。終盤に「仲間がいちばん怖い」というような台詞があるんだけど、その通りずっと社会的には弱い立場である女同士で争っているのがうーん…という感じだった。房子はこの物語の中では比較的しっかりした女だと思うが、それでも性病によって社会に復讐するという自傷的な破滅を選んでしまうのもキツい。構造的に男からの搾取が存在しているのにそこへの反発がまったく起きないから罪がフォーカスされず(原作が作られた時代的に仕方ないんだろうけど)女の敵は女、みたいな印象で終わっていると感じた。房子と夏子や久美子の間には多少の連帯が見えるけど、それも手を取り合って搾取者に立ち向かおうというものではなく、傷ついた動物が身を寄せ合うようなものだ。


ただ演出はおもしろい部分があった。グラミュを見ていて、ミュージカルって感情が高まったときに歌うものなのかと思ってたんだけど、背景説明みたいな会話でもすごく歌う。しかも同じフレーズを何回も繰り返す。演者も別に全員歌に安定感があるわけでもないので、序盤は正直ちょっとだるいな…早く話進まないかな…と思っていた。ところが、一幕最後かな?にそれまでの全部のフレーズが口々に歌われるくだりがあり、それがとてもよかったので演出意図として少し理解できた気がした。まあ別に感情が高まったときしか歌っちゃダメなルールがあるわけでもないしな。関西弁の歌の多さは「てなもんや三文オペラ」に似てるなと思ったけど(あっちの方がコミカルだが)あれはミュージカルじゃなく音楽劇と言っていたので、何がラインなのかはよくわからない。


キャストはとにかく北村岳子さんが圧倒的に素晴らしかった。3役演じているけど(古着屋の老婆、純潔協会の婦人、婦人ホームの長)全て自然かつ違う人間、歌もめちゃうまく台詞からの流れもシームレス。北村有起哉さんは程度の差こそあれ平田と院長の2役がこの作品の中で善の部分を担っているポジションだと感じて、狂言回しっぽい男の役も含め説得力があってすごく良かったな。

房子の折々の選択は感情的には全然共感できないんだけど、江口のりこさんが演じると何となく納得させられるというか、そういうこともあるのかもしれないね…と思わされるのはすごいと思った。

前田敦子さんはあの役自体は衣装も含めよく似合っていると思ったけど、演技がひとりだけやや浮いていると感じた。抑揚が過剰でずっと上ずっている。発声が喉からなのだろうか、ボリューム自体は変わらないと思うのに何か聞き取りづらい。あと本来やりとりしていくうちにボルテージが上がっていくのではと思うような場面でも最初からフルテンションで来る印象があり、観ている側がちょっとついていけなかった。映像では思ったことなかった(普通にうまいと思っていた)んだけど。伊原六花さんは歌がうまい。あと前田旺志郎くんがすっかり大人になっており、中盤の二面性の見せ場はかなり良かった、後半の展開にも絡むのかと思ったらそうではなかったのが若干肩透かしだったが…。

 

八百屋の素舞台で床が発光するセットは好み。クラブにいる夏子の元に平田がやってくるシーン、天井から下がったミラーボールと市松に照らされた床の上で静かにステップを踏む人々だけでクラブだとわからせるのがおもしろかったな。冒頭「米よこせ」などと書かれたプラカードを持った人々が無言で舞台に出てきて始まり、途中で房子がこの群衆に追い詰められるシーンもあるんだけど、プラカードの内容は戦後に皇居前で起きた米よこせデモに沿ったもののようなので、これは房子が追い詰められる時代の象徴なのだろうか。音楽はかなりよくてリプライズが耳に残る。衣装も魅力的で、房子を探しに出た夏子が迷うシーン(夏子だけが真っ赤なコート、ほかのキャストが皆黒っぽい服)など見せ方も鮮やかで記憶に残った。

目を開かれたロンギヌスの未来

エリア51「かつてのJ」の長い感想。好き勝手書いています。


20分の短編作品。アイドル事務所で下積みを重ねたがデビューできなかった主人公が劇団主宰に転身するも、劇団運営にも金銭的問題や劇団員との不和などが生じ、たったひとりで解散公演を行い、最後にはロンギヌスの槍に貫かれる。

前提として書いておくと作中で実名は何ひとつ出ていないので、以下の固有名詞はすべて観客の妄想です。


脚本・演出・主演である神保さんは元々長年ジャニーズJr.だった方なので、このストーリーは本人の経歴と重なる。公開稽古を見学してプロトタイプの台本を読んだとき、すごい作品だと思った。これは絶対他の人間には書けないから。ストーリー自体は書けなくはないけど、薄っぺらくなってしまうだろう。演劇畑では特異と言えるキャリアをフルに活かしていて(劇中歌の作曲と振付を自身でやっているのもそう)これまで好むと好まざるとに関わらず自信の中に蓄積されてきたものを総動員していると感じた。

前提として、わたしは昔一度A.B.C-Zのバックで神保さん(当時は渡辺さんという名前だった)を見たことがあって認識はしていたけど(ダンスが目を惹くなと思っていた)熱心に追っていたわけではないのでアイドル時代の彼について詳しいことは知らない。あとそもそもそこまで熱心なジャニーズのファンではないし、事務所には支持できない点も多いと感じている(思春期の少年をたくさん預かり、ある種特殊な環境に置いているにもかかわらず、特にジェンダーにまつわるコンプライアンス教育を行っていないように見受けられる点など)とはいえこの作品で語られている文脈はある程度わかる。この作品は観客がジャニーズの特異性をどのくらい知っているか、有り体に言えばジャニオタか否かでまったく捉え方が変わると思う。まずジャニオタじゃない人は台詞でシンメって言われてもわかんないだろうし。実際感想を検索してみると、さっぱりわからないという声も見かけた。ただジャニオタの母数は非常に多いので、これを理解できる人間の数もそこそこ多い。そういう点で、閉じた作品ではあるけどその囲いの対象が少なくはないのが面白いなと思っている。


ジャニーズ事務所には明確にヒエラルキーがある。二場でトイレにいる少年時代のJ(当時はWという名)が言う「個室1個分のステージ」はJr.マンション(コンサートでバックに細かく仕切られた背の高いブースがあり、Jr.はその中で踊る。Jr担のファンはどこに自分の推しを双眼鏡で探す)のことを指している。バックにつくJr.の中にもマンションの一部屋しかもらえない子と、前列で踊れる子がいるし、もちろんJr.とデビュー組のヒエラルキーもある。

ジャニーズにヒエラルキーがあることは皆暗黙のうちに知っているが、演者側がそれを言葉にすることは少なかったと思う。滝沢社長になってからはYouTubeなどで露出が増えたこともあるのか、デビューしたいという意志をJr.が明確に示す場面はやや増えたように思うけど、そもそも神保さんがJr.だった時代の大部分はJr.に安定した露出の場はなく(少年倶楽部くらい?それも人気のある子しか出れない)ファンからしたら次の現場が誰のバックなのかもわからず、ヒエラルキーの上に上がりたくてもそれを表明する手段もない状態だったろう。しかもJr.内でグループが明確に固められている今と違って、以前はデビューの組み合わせすらもジャニー喜多川氏のインスピレーションによる部分が大きかった印象なので、本当に先がどうなるかわからない感じだったのではと思う。


この作品の偉大なるJは当然ジャニー喜多川で、彼の「スピリット」が今なおジャニーズ事務所に受け継がれているのは、本人が亡くなった今なお「ジャニーズ伝説」というその歴史を描く舞台をやっていることからも明らかだ。偉大なるJは「音楽とステージで世界を平和に」という理念を持っていたが、実際ジャニーズ内には蹴落とし合う競争主義と有害な男性らしさがはびこっていた。Jは事務所を離れ「J業を離れ自営業となり」自ら劇団を立ち上げるが、客入りは芳しくなく財政難に陥る。そのとき偉大なるJから得た「はやり」と「むりやり」の教えを思い出し、人気劇団となっていく。しかし劇団員への振る舞いからメンバーが脱退、少年時代の自分と対話し、誰かを加害する前にとたったひとりで解散公演を行う。このとき後ろにのぼりを立てマイクで演説する姿は政治運動そのものなんだけど、これは「かながわ短編演劇アワード」で審査員から作品について「社会的なことは社会運動でやれば?」とコメントされたことを受けてのカウンターである(この件については審査員のコメントが明らかに適切でなかったと思うが、そもそも個人的には観客の主観に基づく部分が大きい演劇というものを、少数の審査員による審査で順位付けするコンテスト形式自体にかなり疑問がある、スキル面ならまだわかるが)


壇上に上がり、せーので争いをやめよう、と語るJは、自らの男性である身体が潜在的に持つ加害性にも言及する。ここの演説はあまり芝居がかっていないというか、素の言葉に聞こえる部分もあったりした。偉大なるJの理想の元に築かれたジャニーズ事務所での苛烈なヒエラルキーも、劇団を始めた後のJが直面する自らがハラスメントを犯しかねない現状(演劇を続けていくことの過酷さがここに収斂する)も、前時代的な有害な男性らしさに立脚する社会の影響を受けていて、そして最後にJを貫くロンギヌスの槍は、そういったアップデートの動きに対するバックラッシュを象徴していると解釈した。ロンギヌスは盲目だったが、キリストを槍で刺し血を浴びたことでその目を開かれる。第3稿の時点ではロンギヌスは誰だかわからなかったんだけど、本番ではパワハラで炎上した劇団ロンギヌスの主宰・クロス(=ジャニーズ事務所時代いじめられていたJr.仲間のX、Jはそれを庇ったことで干された)だと示されている。つまりクロスはデビューしたけれどうまくいかず劇団を始め、でも内面をアップデートできておらずパワハラを行い、最終的にアップデートに反発してJを刺すことになる。安倍元首相の銃撃があったからこの終わり方変えるのかなとSNSを見て思っていたが、結果変わらなくてよかった。最後にクロスはその目を開かれ、アップデートが果たされたともとれるが、そこに映るのはJの肉体で、稽古場で聞いたとき神保さんがこれがまた新たな男性性の強化につながってしまうという捉え方にもなりうるというようなことを言ってた気がする(解釈違ったらすみません)

ミスって現金しか使えないと思わなくて台本が買えなかったので(データで売ってくれないかな…)細かい展開や台詞は違うかもしれません。


劇場で観た素直な感想としては、この内容を20分では厳しかったなと思った。よくないというわけではないんだけど、最初から最後までつめつめで走り切ったという感じで、内容が他にない作品だからこそ、ややもったいなさがあった。多分初見の人に内容が全部伝わりきってない気がする。あと見せ方でいうと、ひとり芝居なので舞台上でめちゃくちゃ着替えるんだけど、最初の曲中以外ではそれがややノイズと感じてしまったのと(曲中は早着替えもJr.のシビアな環境を示していると感じた、ここもJr.がどういうものかを知っているかで印象違いそうだが)これは小さなことではあるけどビールケースに板を置いた台の安定が危うくて見てる側がソワソワしたのと、映像がどうしてもチープだ。

もちろん時間やコストや会場的制約があってのことだと思うので仕方ないと思うし、内容の詰め具合に関しては確か劇場チケットは配信がセットのはずなので繰り返し視聴することは可能だが…上演時間を伸ばし、ちゃんとした照明のある劇場で映像や衣装も作り込んだらとてもよいものになりそうな気がする、と無責任な観客として書いておきます。

 

エリア51を数本観て、神保さんの脚本は台詞の言葉遊びや韻の踏み方で想像を広げる特徴が面白いと思っているんだけど、今回はあとダンス部分がとても良いと思った。ダンサーとしての技能および身体的な恵まれ方(背が高く手足が長い)と、アイドルとして目を惹くために積み重ねたノウハウと、演劇をやっているからこその戯画的な身体表現が合わさっている。もっと踊りの仕事も見てみたい。


4団体×20分というイベントのトップバッターだったんだけど、この作品終わりで帰る人がかなりいた。もちろん時間の使い方は自由なので個人的な感想だし批判でもないですが、マインドが閉じていて興味深い。このイベントに対しては会場の演劇に適してなさがすごいとか、些少な制作費で20分の短編となると結局本公演への集客目的と割り切って既存の短編やるのがいちばん賢くない?とか、そもそもチケット発売時間にちゃんと発売されなかったりとか、色々と言いたいことはあるけど、それはそれとして、もしかしたらこの後にやる団体がめちゃくちゃ面白いかもしれないじゃん。